理解することの喜び
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書いててまどろっこしくてよくわかんなくなったけど、
必要はないんだけど、特定の情報を自分の脳に処理させて、他の誰でもない自分が理解していることに意味や価値(≒ 喜び)があるのではないか、と思ったという話である。
機械に演算させれば済むし、そのほうが早いし楽なんだけど、苦労してでも自分でやりたい、という気持ちはあるだろう、というイメージ。
今日、PSYCHO-PASS の新作映画1を観てきた。この映画の内容は本稿の本筋ではないが、この映画を見たあとで思ったことなので触れておく。
今回の映画は、アニメのシーズン 2 とシーズン 3 の間の話である。シーズン 3 ではいきなり状況の異なるところから話が始まり困惑した人も多いであろう。その疑問やわかりにくさからシーズン 1 はよかったのに…と評価する人も少なくないであろう。
そういう映画の話は脇に置き、ここで重要なのは、作者はどういう意図でこのような作品——特にシーズン 3 のあたり——を描いているのだろう、というのは気になっていた。その手がかりというか、PSYCHO-PASS の世界観の全容が垣間見えてきた、という意味でとても面白かった。
エヴァンゲリオンもそういう節があると思う(そして 3 作品目で状況が飛躍して困惑するところも似ている)が、そのような意図や世界観を考察することが 1 つの楽しみであるところもある。私はそういう示唆的な部分であったり——時に風刺を交えているところ——を考えることが好きである。
それはある種の「理解することの喜び」であると思う。そして、これが今後の現実世界において重要な喜びの類になるのではないかとふと思ったのである。今回はそれについての話である。
理解力の必要性
「理解力」というのは「喜び」という感情とは結びつきにくい(少なくとも通俗的には)概念ではないだろうか。どちらかといえば、必要性の中で論じられることが多いのではないだろうか。
社会で生きていくためには理解力が必要である、とか、人間は理性的な動物であるから、という文脈もあるかもしれない。いずれにせよ、能動的に求めるというよりかは、外部から要請されるがゆえに身に着ける必要があるという感じである。
不要になりうる理解力
とはいえ、現代社会において、人間は何でもかんでも理解する必要がない。少なくとも 1 人の個人が全容を知る必要がない、それでも社会は回るようになっている。
社会の複雑度が上がる程に、1 人の個人が把握している割合は減少していく。我々が日頃使っているスマートフォンがどのように動いているかも知らないし、そこで動いているアプリケーションがどういうものなのかを知っている人は少ないだろう。
しかし、それでもそうしたものに依存し生活し、それでも社会は回っている。そういう意味で、理解力は必要ではないということがいえるかもしれない。
ますます不要になる理解力(?)
とはいえ、上記の段階では、個人が全容を知っている必要はないという事をいうに過ぎない。アプリケーションがどのように動いているかを全員が知っている必要はないが、誰かが知っている必要がある。少なくとも作った誰かは把握しているはずである2。
また、自分が何かをする際し、そのしようとしている事柄については理解している必要がある。法律に関して何かをしている人は法律を理解している必要があるし、プログラミングをしている人はプログラミングを理解している必要がある。
しかし、これらの理解力も、ますます不要になっていくかもしれない。膨大な情報を処理し、そこから特定の法則性や一貫性を見出し「理解」するのは、もはや機械のほうが得意な分野になりつつある(元々そうだったともいえるかもしれない)。そして、そのような機械が人間の代わりに行動することも増えていくだろう。
そうなると、人間が理解力をもつ「必要性」は今後減少の一途をたどるのかもしれない。教育なのかはわからないが、そういった演算可能な問題に対する理解力は、ますます不要になっていくのかもしれない。自分で理解せずとも機械が理解してくれていればいいのかもしれない。そうなった時に、人間は理解力を持ち続けようとするのであろうか。
喜びとしての理解力
最初に話を戻そう。PSYCHO-PASS のストーリーの全容を理解したい、というモチベーションが自分にはあったという話をした。この文脈での理解力は客観的な必要性とはまったく紐付かないタイプの理解である。PSYCHO-PASS という作品の世界観を理解する必要性はまったくない。人間の脳——というより自分の脳——がその情報を処理し、理解し、保存しておく必要性はまったくない。
人間が生きるために解く必要のない問題を作り、それを人間が解いているという意味では、単にマッチポンプであるともいえるかもしれない。これが無意味だと言いたいわけではない。むしろこの類の理解しか人間には残らないのではないか、この理解の喜びがある限り、一定の理解力を人間は保持し続けるのではないか、とふと思った。
こう思ったことが、これを書き始めたモチベーションである。
PSYCHO-PASS のような作品に限らない。社会現象も、現代においては問題を解決するために誰かが理解する必要があるので、誰かは知識や理解を持ってその課題に立ち向かっている。しかし、そのような現象改善は機械のほうが得意となったならば、事態の改善のために人間がそれを理解する必要はなくなる。
ただ、PSYCHO-PASS の世界観を理解したいと思うのと同様に、社会の現象を理解すること——機械でも他の人間でもないこの私の脳がそれを理解していること——を欲するかもしれない。それは古代ギリシアにおいて宇宙の法則を理解することを欲したモチベーションに近いものになるのかもしれない。通俗的には知的好奇心というのかもしれない。
要/不要から切り離される理解
こう書いてみて、理解とは必要性と結びつくものでは元々なかったように思えてきた。科学・技術の発展はむしろそのような純粋な理解を求めるモチベーションが生み出したのかもしれない。この文章を書き始めた、そもそも理解力が必要性と通俗的には結びついているという前提が、そもそも間違っていたのかもしれない。
大学全入時代といわれ始めたここ数十年の過渡期的で一時的な見立てなのかもしれない。機械に聞けば分かるから、自分でわざわざ考えて処理必要がなくなるというのはそうかもしれない。だからといって必要性の観点からだけ理解するという行為を見て、それをしないようになっていくのはなにか物悲しさのようなものを感じるような気がする。
機械がやってくれるから自分がやる「必要」はないが、自分がやることに意味があるという部分があるはずである。
勉強や研究であると不要ならやらない、と直観的に想起しやすい例かもしれない。でも野球ならそうはならないと思いやすいかもしれない。野球にはプロが居るからそれに劣る自分がやる必要はない、とはならないであろう。草野球でプロ並みのプレーは当然できないわけだけれど自分が野球をプレーすることそのものが楽しい、嬉しいとなるはずであろう。それはプロが野球をプレーしていることでは代替されないなにかである。野球の技術の向上——あとはメジャーリーグに劣らない日本の野球を実現するみたいな話もあるのかもしれない——とは関係なくても野球を素人でプレーする喜びは当然あるはずだ。
そんな形での、「理解の喜び」も残っていくはずだし、機械の発達が顕著になったしても、大切にしたいものであると思う。
Footnotes
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あまりに複雑なシステムであれば、誰も全容を把握できず改修が難しい、という実践的な問題はあるかもしれない。 ↩