考えるという行為をするということ
「考えるという行為をする」
このことはとても重要であると思いながら、それが何であるかを具体的に想像することはしてこなかったように思う。
現在、自分はとある大学院で政治哲学を専攻する修士 1 年の学生である。
政治哲学と呼ばれるものは、あらゆる事象の根底にある規範について議論するものであり、お察しのとおり抽象的な話をすることが多い。
あらゆる社会問題、近年特に注目されるジェンダーの問題や移民の問題など、さまざまなものを取り扱う一方で、少なくとも自分の中では、あくまで抽象化されたものとして見ている節がある。
だからこそ政治哲学が議論される価値があるというところもあるのであろうが、具体的な個別の事象について明るい見解を持っているわけでもない、というもどかしさがどこかある。
理論的にはこう捉えることができるというところまでは思い起こすことができるが、じゃあ実際の社会問題、具体的事象を見ようとしたときに、物事は多面的で難しいよね、というところでどうも止まってしまう。
そこから先の判断を加えることは、当然論争的であり、明確な正解なんてものはない。だからこそ、過ちを恐れて、そこへの言及を避けていたであろう。抽象化された理論というツールを使いながら、完全なる正解なんてあるはずがない物事に対して見解を提示していくことこそが 1 つの価値であると思うのだけれど、それを実際に行うのはどうも難しさやためらいを感じている。
現代は、人々に考えさせずに動員していくことのほうが簡単である、そういうメカニズムで社会が動いているとの東浩紀氏の見解を見て、確かにそういう側面があるよなと納得した。わかりやすさに人々が飛びつきやすくなっており、腰を据えて精査するという契機は失われつつあるという問題意識は長らく共有しているように自分は思った。
そこで、東氏はいかに人々に考えさせる環境を提供するのか、という点に着目する。SNS で他人から注目されることを良しとする環境、それによって収益化が成立するビジネスモデルでは、多くの人を動員できるキャッチーで単純化されたコンテンツが受容されるのは自然なことであろう。そうした論理とは異なる環境を用意することが必要だと考え、その 1 つが「シラス」ということのようである。
自分自身は、考える契機が失われシンプルに傾倒した現状に辟易はしつつも、それでは考えるという行為をできていたのかといわれるとそうではないなと思った。前述のとおり、ことは単純ではないことは理解している。しかし、複雑である状況に次にして切り込み、暫定的にでも見解を示していく、というところにまでは及んでいない。難しいよね、その複雑さに蓋をしながら、どこか遠ざけていたのかもしれない。誤った見解を提示してなにかいわれるのを恐れていたのかもしれない。
自分は専門家ではない。詳しい話は専門家・有識者の意見を聞けばいい、とエリート主義的な見方をする人もいるであろう。しかし、こと政治的な文脈においては科学的に正解の導けるものではない。人々の間で正解らしきものをいかに見出し意思決定していくか、というものであると思っている。だとするならば、専門家ではない自分、単なる素人である自分であっても、何か考えることには意味があるのではないかと思う。
上記のような問題意識は共有している一方で、それでは何をしたらいいのかはいまいちわかっていない。しかし、自分自身が考えるという行為を放棄している事自体は何かしらの問題、少なくとも個人的な問題ではあるように思っている。それを打破するためにも、このサイトにおいて、拙かろうとなんであろうと考え、それを多少の文章としてしたため公開することは何かしらの意味で有用ではないかと思ったのである。