飽き性の頭の中

反芻を大事にしたい

反芻を大事にしたい

tawachan
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「ツァラトゥストラはこう言った」を読んで思ったこと

前も読もうとしたけれど、挫折した気がする

あらためて読み直したら若干の実感が伴って案外気軽に読めている

これから思うことは、何か読書をするためにはそれに伴う経験や実感が必要だということ

それが響く心理状態であることが重要なのであろう

他でも似たようなことが書いてあった、まぁ月次なことなのだろうが、それでも実感したひとつの事例であった

ここから思うことは、単なる経験として何でも忘れてしまう、素とおりさせてしまうのではなく、

何かしらの強い感情が生起する経験は誰にでも多かれ少なかれあろう

なにか重大な場面でかもしれない、傍から見れば些細なことだが自分にとっては心揺さぶられる瞬間かもしれない

そのとき時に抱いた感情と向き合い、それに関連した書籍を読むことで、適切に反芻し、言語化し、向き合っていくことがもっとも重要なことのひとつなのではないかと

自分は中学生のときに偶然そうした感情の生起と向き合う手法として書籍を選んだ

誰かに進められたわけでもなく一人で悩んだ末にたどり着いた結果である、逆にいえばそれくらいしか頼る先がなかったともいえよう

でもそれは環境による不可避的な要因によるものであった

それ以降はむやみに感情が揺さぶられすぎないような環境を選択的に望んでいたようにも思う

何かを反芻し体得するためのきっかけを欠くような選択であったかもしれない

あるいは、反芻を必要とするような切羽詰まった環境に身を置くことを暗に避けていたのかもしれない

まったく違う環境、まったく異なる理解できないようなものと対峙することをしなかったかもしれない

その意味では、あまり適切な種類の経験を得てこなかったのかもしれない

月次な言葉でいえば、コンフォート・ゾーンを出れば、考える必要性も高まる、その都度適切な仕方で困難と向き合えばいい、ということであろうか

いずれにせよ、経験の幅が広がれば、すなわち、実感を持って得られる知識の幅も広がるというものであろう

経験も知識も相互補完的であり、一方が他方よりも優越するものではないのだと思われる

このような、そもそもの姿勢のようなものを子供の頃から明示的・暗黙的に示されるか否かは、バイオリンをやるといった個別具体的な教育内容よりも、極めて重要な差異を生むのではないかと思った

社会構造の再生産というのは、教育投資にさける余力の多寡など物質的な話であるだけでなく、もっと抽象的なレベルの話でもあるのかもしれない

ただ知識を受動的に吸収することを強いられる姿勢を前提とすれば、塾などの教育投資の量により差は着くであろうが、

そもそも能動的に何かを向き合う自律性を幼少期から育むことができたなら(これは一般的な日本の教育機関からは期待できない効能であろう)、金銭では回収されえないほどの差異をもたらすのではないだろうか

そしてこれは、その時点でどれほどの資産を持っているかという話ではなく、親がどのような思考をするかという問題になる

その時点で金銭的に貧しかろうと、そのような思考を持ち得ていれば、それすらも凌駕する「資産」となるかもしれない

話はだいぶ飛躍したが、要するに、このような姿勢をもう少し早く能動的に活かしたかったということである

過去の経験から考えが深まる領域があったということには自覚的であったが、そのサイクルをハックして意図的に思索範囲・深度を変えていくというところにまでは発想が至らなかったという後悔を含むものである

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