ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」は坂口安吾の「堕落論」に似ている?
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ありふれた解釈なのかもしれないが、思ったことをメモ。
ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」1を読みながらどうも既視感が拭えないなと思っていたら、坂口安吾の「堕落論」を思い出した、というわけである。
「堕落論」は好きだったので覚えている。「堕落」というネガティブな言葉を使いながら、実はそこにポジティブな意味を見出していく。
そのような逆転を意図するところが、「ツァラトゥストラはこう言った」にもあるように思える。
似たことを書いている方がいたので、まったく見当外れではないのかもしれない。
天皇制とキリスト教という違いはあれど、個よりも外側に生を規定されることに対する抵抗があるという点では、ニーチェと坂口は同じような思想を持っているといえるだろうか。
外から与えられる規則(道徳?)からの逸脱を「堕落/没落」というのだとしても、喜んでそうしよう、というような発想であろう。
しかし、こうした自律や主体性のようなものを賛美する時代になった現代において、再びこの問いは問題となってくるようにも思う。
人々は外から規定されることなしに、自らの足で人生を歩んでいくことを好ましいとされ、そのような社会になりつつあったのかもしれない。
しかし、社会は複雑化し、自分ひとりの意思で物事を判断し、決定していくことは実質的に困難になってきた。そして、その困難さゆえにその自律性・主体性を謳歌することを忌避することにも一部つながっているのかもしれない。
そうであるならば、宗教のような外からの明示的な規定はないものの、結局のところ、複雑化し情報爆発した現代社会において、何を正として理解し、行動原理とするかは、必ずしも自分一人の自律とはならないであろう。
すると結局、堕落したくてもしきれないというか、完全に理解はしきれないので、外から与えられる判断(道徳)に身を委ねる状況へと回帰せざるを得ないのかもしれない。
堕落することを是として、暗黙的に私も考えてきた節があるような気もするが、あらゆる分野においてそれができるような気はしない。
フェイク・ニュースや有象無象のインフルエンサーが支持を勝ち得るために、あることないことが流布される状況において、自分の判断で「正しい」ことを選ぶことは困難になっているようにも見える。
そうであるならば、「正しさ」の化けの皮をかぶった私欲が渦巻く世界よりは、キリスト教などのある程度歴史により洗練された道徳に身を委ねる方が、より安全だったのであろうか。
このような問いは今一度考えてもいいのかもしれない、と漠然と思った。
Footnotes
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「ツァラトゥストラかく語りき」のほうがかっこいいとは思うけど、読んだ岩波の翻訳は「ツァラトゥストラはこう言った」だったので、こちらにしておく。 ↩