飽き性の頭の中

合理的経済人批判〜ノーベル賞経済学者アマルティア・センからGoose house竹渕慶まで〜

tawachan
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はじめに

2/17(月)夕刻になんとなく思いついたので、簡単に言語化することにし、本稿を書いてみた。アイデアベースであるため、論理的に述べられているのかはかなり怪しいところである。感想や指摘など何でも思いついたことがあればコメントしていただけたら幸いである。ちなみにタイトルについては、最後まで読んでいただけば多少理解できると思う(勢いでつけてみたが、そこまで意味は無い)。

本稿の目的は、経済学において想定される個人は合理的経済人と呼ばれ、しばしば批判の対象となっているが、それについてコメントすることにある。経済学の根幹を揺るがす論点であるが、今回はその点について思い当たったことを述べる。しかし、既述のとおり、思いつきであるので、あまり論理性は期待せず感想文程度に見てほしい。そして、皆様からの指摘をもとに、これからの思考の糧にしたいと考えている。

ヒトの認知——二重過程モデル

まず、経済学の想定における合理的経済人を考える前に、ヒトというものはどのように認知を行っているのかを見ることとする。その一説として、最先端の神経生理学で主流となっている(らしい)「二重過程モデル」を挙げる。

二重過程モデル

二重過程モデルでは、ヒトの認知活動は「ヒューリスティック処理システム」と「分析的・系統的システム」により行われていると考えられている。ヒューリスティック処理システムとは、簡単にいえば、直感的処理のようなものであり、意識的には制御できない。対して、分析的・系統的システムとは、「言語や規則に基づく処理を行い、意識的に刺激を系統立てて制御して」いるシステムである。簡潔にいえば、合理的な判断を行うシステムである。

ヒューリスティック処理システムについて補足する。つまり、合理的判断に影響する感情によるものであるが、主に行動経済学でこれが考慮されている。たとえば、カーネマンとトヴァスキーが提唱したプロスペクト理論がある。アンケート調査により、同内容の質問に対しても、質問の表現方法を変えると答えが異なることを実証した。このことをフレーミング効果というが、この実証により、合理性の限界ならびに合理性のみの想定の不十分さを示すこととなった。また、イソップ童話の「酸っぱいブドウ(Sour Grape)」もその例示としてあげられるだろう。

要するに、ヒトの脳内では、ヒューリスティック処理システムと分析的・系統的システムの 2 つが並行して機能しているのだ。直感的な判断と合理的な判断をするシステムを独立に持っていると考えられている。

分析における合理性の過大評価

既述のように、合理的な個人を想定すると説明ができない現象が実際に起きうる。ヒトは理性的であり、かならず合理的な判断ができるという過大な要求に基づいているに他ならない。

ヒトは、感覚的にもおそらく分かるように、非合理的な側面も持ち合わせている。つまり、理性のみならず感情も持っていることは自明であるが、その点について詳しく見ることとする。

ヒトの非合理的側面の重要性

決して、合理性の重要性を否定するわけではない。しかし、非合理性もそれと同様に重要であることを指摘したい。2 つの観点から述べることとする。

合理的な愚か者——センによる合理性批判

センは合理的経済人を批判し、非合理性の重要性を述べた。非合理的な行動を「共感」と「コミットメント」に分類する。共感は、他者の厚生を改善する行動ではあるが、他者の厚生が自己の厚生に影響する場合のことをいう。つまり、他者の厚生を改善することを通じて、自己の厚生を改善することを目的とした行動であり、表面上は利他行動であるがあくまで利己的な行動である。対してコミットメントは自己の厚生にはまったく関係ないにもかかわらず他者の厚生を改善する行動を取ることである。これは純粋な利他行動であり、従来の合理性のみでは説明できない現象になる。

では、何が人々にコミットメントをさせるのか。それは倫理観や正義の感覚である。たとえ、利益に反するとしても、正義に基づき行動を起こす。東北へのボランティア、紛争地域における飢餓や非人道的な扱いに対してアクションを起こすことはこのコミットメントに含まれるのかもしれない(もちろん、それが就活に有利に働くといった理由に基づく「共感」である可能性もあるが、それがすべてではないだろう、そう信じたい…)。

こうした現象を説明するためにも、センは経済学の想定する個人を合理的な愚か者と揶揄している。

政治過程における感情/情念

公共哲学の世界においても、理性が重要視される傾向がある。情念は秩序を乱すものとして理性に統御されるべきものとして考えられていた。しかし、この分野においても情念が再考されている。

ヌスバウムによると、感情には「認知的機能」があるとした。感情は、「世界における何らかの対象についての人々の評価を示すもの」であり、その評価は「人々が受け入れてきた社会的規範にもとづいている」。つまり、ある事象に対して、直感的にもつ「好き」や「嫌い」といった感情は、社会的規範、正義の感覚を反映しているものである。よって、理性的な判断(理由付け)による評価のみならず、感情による評価も考慮されるべきだ。

社会評価の指標としての正義の感覚・社会的規範

上記の 2 つの論点から、非合理的な判断においては、正義の感覚社会的規範が重要であるということがいえよう。

つまり、社会を評価するにおいては利得計算に基づく合理的判断のみならず、正義の感覚といった非合理的判断も同等に重要なのである。

以下からは、非合理的な評価に基づいて社会を改善するにはどのような行動が必要かを検証する。

非合理的評価に基づく改善のために

合理的評価に基づく場合、利得の最大化を求めることが改善につながるのは自明のことである。しかし、非合理的評価の場合、何をもって良し悪しを判断するのか。それについて考えることとする。

公平な観察者——開放的普遍性

正義の感覚・社会的規範から思い出されるものの中に、スミスの「公平な観察者」があろう。前稿(アダム・スミス——「公平な観察者」の提唱者として)でも簡単に説明したが、「同感」により自己の所属する社会の規範として胸中に公平な観察者が形成される。これは、ある社会の中で他者を評価し、また他者から評価される中で経験的に獲得される正義の感覚ともいえる。そして、この感覚が許容する範囲内での合理的行動を提唱したのである。

スミスは「徳への道」と「財産への道」への同時追求を良しとしている。つまり、財産への道(合理的判断)のみならず、徳への道(非合理的判断)もある社会状態、個人の行動を評価する際に考慮されるべきだということである。

既述の非合理的判基準である公平な観察者であるが、基本的に所属共同体内の状態に依存するため、共同体ごとに異なる。つまり、日本で生活する人の中に形成される公平な観察者とアメリカの中で形成される公平な観察者は異なるということである(曖昧にやり過ごすことがアメリカで通用しないとか?)。このある共同体内おいて一般的にいえる判断基準を閉鎖的普遍性という。ロールズの厚生としての正義やこの閉鎖的普遍性をもつ。しかし、ある共同体内のみで通用するため限定的な概念となる。

対して、共同体内に限定されないのが開放的普遍性である。そして、スミスの公平な観察者はこの開放的普遍性に拡張することが可能である。なぜなら、公平な観察者を形成する際に必要な「同感」の対象は、共同体の成員に限られないからである。日本人であっても、紛争による難民に同感し、それに基づく正義の感覚をもつことになれば、日本の枠を超えることができる。

何をもって改善とするか

私は、上記の開放的普遍性の度合いによって判断されるべきだと考える。なぜなら、より開放的な普遍性をもつのであれば、個人の同感の対象が広がり、コミットメントの起こる回数が上がるからである。もちろん、同感してもコミットメントに必ず繋がるとはいえないが、対象が広がることはひとつの改善といえるのではないだろうか。

(コミットメントの数が増えたとしてもその質が悪ければ改善ではない可能性があるが、その場合は捨象する。Ex. 被災地支援をしたがニーズに合わずかえって悪影響をもたらしてしまうケース)

普遍性の拡大

普遍性の拡大には何が必要か。それは、共通性帰属意識など個人の感覚によるものである。おそらく現在の一般的な普遍性の範囲としては国家であろう。しかし、国民としての意識のみならず、世界市民としての意識もそれになりうる。また、それだけではなく、同じ趣味を共有する同胞としての意識や、グローバル化による国境を越えた仲間意識も含む。つまり、地理的な要因には限らない、さまざまな要素に基づくつながりの意識である。

そして、それを促すものとして、文化・芸術が挙げられると考える。

文化・芸術の役割——開放的普遍性を目指して

文化・芸術が普遍性の拡大に役立つと述べたが、それがどのような意味が簡単に言及する。

文化・芸術とは

まず、文化・芸術とは何をここでは意味しているかを説明する。学術的定義というよりは、私自身がイメージしているものと考えてもらいたい。

文化は、大辞林第三版にある「社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体」と考えてもらいたい。大小問わない共同体における慣習や規範、道徳のことである。芸術は、世界大百科事典第2版によるが、「独自の価値を創造しようとする人間固有の活動の 1 つを総称する語」とする。伝統文化からポップカルチャーまであらゆる創作はこの芸術に含まれることとする。

文化・芸術の意義

文化と芸術の振興は、普遍性の拡大をもたらす。

まず文化についてであるが、多様な文化へのアクセスをより多くの人がもつことで、ひとつの文化に対して親しみをもつ人の数が増えることになる。つまり、従来は一人は一文化圏内におさまっていたのが、他の文化へのアクセスももつようになり、オーバーラップする現象が起きる。それにより、地理的に所属している文化のみならず親しみを持っている文化へも同感を働かせることが可能となりうる。

芸術に関しては、これは人類が普遍的にもつ価値へうったえるものがあり、それが同じ人類としての連帯を生むことに繋がりうるのではないだろうか。歴史的な絵画や音楽のみならず、いま日本が誇っているアニメにも人類普遍の価値観を見出すことは可能ではないだろうか。

かなり簡略化された説明で(もとより自身が言語化できるほど明確に理解していないのだが)、批判点は多くあるだろうが、私は文化や芸術が人類の帰属意識の範囲の拡大を促し、開放的普遍性へと導く術であると信じている。

歩むべき道——ひとりひとりの「公平な観察者」を育てよう

開放的普遍性を目指すにあたり、一体私たち個人には何ができるだろうか。それは、文化・芸術に親しむことであると考える。

日本にて、留学生と関わる中で多文化についての見識を深めるのもよいであろう。また、実際に留学等で文化を体験することも大きな影響を持ちうる。もちろん、違いの基準は国にとどまらない。今まで知らなかったジャンルの音楽を聞くでもいいし、絵画を見てみるでもいいし、新しい趣味を始めるでもいい。そうした些細な事から自分が同感できるものの範囲は広がるのではないだろうか。

そして、それらを評価できる学問体系が形成されれば尚の事よいのかもしれない。

おわりに

かなり長くなってしまったが、本稿で提唱したいことは、2 つあった。1 つは非合理的基準も学問的に考慮されるべきであるという点である。もう 1 つは、私たちひとりひとりが合理的経済人であるかのような振る舞い(特に経済学徒)をするのではなく、文化・芸術に親しんで「公平な観察者」を育てるべきだということである。

最近の話 PART1——考えていること

というのも、自分自身があまり文化的なものに触れてこなかったことに端を発している(つまりこの主張には自戒の意が大部分を占める)。客観的に、理性的に考えることを中学くらいからある種の美徳と据えてきた部分があった。しかし、西洋的価値観が普遍的であるかのように思い込まされているだけで、同等もしくはそれ以上に大事なものもあるのではと考えるようにもなった。そしてそれをより持っているのは東洋なのではないかと(この辺はざっくりイメージなのでこれからまた勉強していきたいと思う)。日本はその意味でもよい文化を持っていると考えている。

最近の話 PART2——心がけていること

ということで、新書やら学術書やらを読むことが好きで、文化的な営みをむしろ避けてきた感があった(ような気がする)私がしていることを簡単に書き留めていく(正直、本稿に関係があるのかといえば一貫性に欠く部分が大きいと思うが)。

小説

ただの娯楽のようなイメージがあったので、あまり読んでこなかったのだが、読んでみると面白いということのほかに、メッセージ性であるとか、ヒトとして生きる際に考えさせられる要素が多いことに気がついた(今更)。

最近では湊かなえの『告白』がかなりよかったと思っている。

アニメ

これもメッセージ性に長けていて、よいものである。もちろん、エロ要素のみで何のインプリケーションも存在しないものも散見される(以前毛嫌いしていた理由)が、概ね見る価値のあるものであろう。

最近見たものといえば、『物語シリーズ』で、アニメ化されてるやつはおそらく全部見たはず。あと内容的に『Clannad』もかなり好きである。

美術館、博物館

以前はまったくと言っていいほど行かなかったのだが、最近もう少し行ってみようと思うようになった。この前は、16 日まで国立新美術館で開催されていた文化庁メディア芸術祭に足を運んだ。芸術という概念を再定義されたような感覚であった。

また同日に国立科学博物館にも行ってきた。海外旅行のときはあらかた美術館・博物館は回るのだが、東京のはそういえば行ってなかったのでこれからいろいろ行きたい。

Goose house  竹渕慶

これは、Goose house が試験前にもかかわらず、ぼーっと YouTube で流し続けてしまうほど好きということにつきる。あんなに楽しそうに歌われると自分もやりたくなってくるくらいに(小さい頃に音楽に触れていればと後悔もしたりしなかったり)。これこそ人類普遍の楽しみだと感じさせてくれるようなものなのでは…?

そして、メンバーの中でとりわけ竹渕慶さんが好き。本稿を思いつく少し前に、ふとした思いつきで、彼女のソロミニアルバムをポチるくらいに。あんなに楽しそうに歌う人は他にいないんじゃないかとすら思う。

おわりのおわりに

長くなり、しかも最後に必要があるのかも分からない内容となりましたが、ここまで読んでいただいた方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございます。推敲をあまりせずに流れに身を任せ書いてしまったので、論理的に繋がらない部分もあるかもしれません。見つけた際はお手柔らかに指摘していただければ幸いです。

そして、よくよく考えたら認知限界により発生する非合理性については結局考慮できてなかったですね。

何かまた思いついたら書きたいと思います。ありがとうございました。

  • アマルティア・セン(2011)『正義のアイデア』池本幸生訳, 明石書店.
  • 近藤誠一(2008)『文化外交の最前線にて』かまくら春秋社.
  • 高橋昌一郎(2008)『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』講談社.
  • 高橋昌一郎(2012)『感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性』講談社.
  • 堂目卓生(2008)『アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界』中央公論新社.

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