経済成長と持続可能な社会
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はじめに
現在、世界は更なる富を追求するため、成長を志している。それは、さらに便利な生活を求めることや、低開発である地域を改善することである。そして、私たちはこの方向性を正当なものであるとし、邁進していこうとしている。リーマンショック、欧州危機の後、世界は経済不況に見舞われることなったが、その後もやはり世界は成長を志す。日本も例外ではない。昨年末に民主党政権が倒れ、再び首相の座に返り咲くこととなった安倍首相が先導するアベノミクスでも成長戦略がやはり重要なキーワードとして掲げられている。世界は、市場主義経済における競争の中で際限なく、しかも疑念をもつことなく成長を追求しているように見える。
しかし、この方向性には暗黙のうちに前提になっていることがあろう。それは、成長が持続可能であるということである。持続可能であるならば、更なる富を追求し、より豊かな生活を志すことを敢えて批判する必要性はないだろう。しかし、現実を見れば、今の世界は持続可能ではまったくない。このまま成長志向を掲げていれば、持たざる者がそもまま持たざる者で居続けるのみならず、持てる者すら持たざる者に転落する。最終的には人類そのものが危機に直面する事態すら生じ得る。そして、市場に任せておいてはこの状況は改善されない。空間的にも時間的にも最適な資源分配が達成されていないからである。
こうした状況を知覚していない、または現実に受け止めていない人がほとんどであるように見える。危機的状況に直面するのはおそらく数十年単位の話であり、当事者意識を持てないのは、むしろ当然のことであろう。人々は実際に危機に直面しないと行動出来ない、歴史から学べない、と揶揄されることもしばしばであろう。しかし、この問題に限っては知覚できるほどの兆候が現れてからでは手遅れになる可能性がある。したがって、私も含めて多くの人が実感を持って必要性を感じることは困難であろうが、この問題を現段階から考えることは極めて重要であると考える。
そこで今回は、ジェフリー・サックス(コロンビア大学)の著書『地球全体を幸福にする経済学――過密化する世界とグローバル・ゴール』を基礎にして考えてみることとする。
人類全体が直面する危機とは
先ほどまで、今の世界の現状は持続不可能であると言及したが、実際にどのような意味で実現不可能なのかだろうか。サックスは人類が直面する危機として次の4つを挙げている。
- 地球の生態系や気候に与える人類の圧力を大幅に軽減しないかぎり、危険な気候変動、大奥の生物種の絶滅、重要な生態系の破壊を招く。
- 世界の人口は危険なほど速いペースで増加し続けている。とくに、急増する人口を支えきれないような地域ほど、人口増加のペースが速い。
- 世界人口の六分の一が極度の貧困にあること。彼らはグローバルな経済成長の恩恵から取り残されている。貧困の罠は、貧しい人々を苦しめるだけでなく、世界中の人びとにとって大きなリスクとなる。
- グローバルな問題を解決しようとするとき、シニカルな考え方や、敗北主義、時代遅れの制度のせいで、動きが取れなくなる。
以上4つの問題が挙げられている。そしてサックスは、こうした問題が「自由放任主義の市場原理や、競争にあけくれる国民国家」において「自動的に解決されることはまずな」いが、「積極的な公共政策」によって解決できるとしている。そして今回は、関心に引きつけて、最初の2つ(環境の持続性と人口問題)について取り上げる。簡単に各々の説明をした上で、考察をしたい。
環境の持続可能性
前述の問題の1つ目について簡単に記述する。論点は大きく分けて、気候変動と水不足、生物多様性の3点である。
気候変動については、二酸化炭素濃度の増加が挙げられている。産業化が始まる以前は、二酸化炭素濃度は 280ppm(空気分子 100 万個につき、二酸化炭素分子がおよそ 280 個)であったが、現在では 380ppm へと増加している。この主な要因は「森林伐採と化石燃料の燃焼」である。キーリング曲線を見てみると、二酸化炭素濃度が一貫して上昇傾向にあることが分かる。そして、このまま CO2 排出を続けていれば、21 世紀末にはは 560ppm まで増加する。そしてこの数値以上になると、「気候変動の被害が制御不能になる恐れ」が出てくる。新興国の急速な成長を考慮すれば、2050 年にはこの数値に達する可能性もある。二酸化炭素濃度の増加により生じる問題は地球温暖化がよくいわれるが、そんな単純なものではない。項目だけ列挙すると、海面上昇、生息地の破壊、伝染病の拡大、農業生産力の変化、利用可能な水資源の変化、自然災害の増加、海洋科学の変化、となっている。普段いわれている以上に深刻な問題であるように見える。
次に水不足についてである。既出のように気候変動が、水循環に変動をもたらす。また、地下水やダムによる河川からの水の過剰消費により、水不足が引き起こされようとしている。水は食料生産など生活に極めて重要な資源であり、過剰取水や気候変動により水へのアクセシビリティが断たれる地域も存在する。水ストレスの要因もあって実際に、「水をめぐる状況が悪化したため、スーダン、チャド、ウガンダ北部、エチオピア、ソマリアなどで暴力事件が起こっている」
生物多様性についてである。世界自然保護基金の「生きている地球レポート」によると、「1970 年以降に種の分布状況が広範囲で低下している」ことが分かる。また、進化生物学者 E.O.ウィルソンは、生息環境の破壊、侵略的な種、汚染、人口増加、過剰採取が多面的な阻害要因としている。さらに気候変動も加わりさらに悪化するとしている。これにより生じる実際の問題としては、漁業の崩壊や、土地の砂漠化、遺伝子減の減少、などが挙げられる。
人口問題
現在の世界人口は 70 億人を越えたといわれている。そして「2050 年の世界人口の見通しは、おもに貧しい国々の合計特殊出生率の展開次第」で決まる。もっとも可能性が高い予測では、91 億人に達するといわれている。世界人口の増加を止め、安定させる必要がある。
注目すべきは、人口の増加はほとんどがアジアとアフリカの貧困国で起きることである。貧困であるがゆえに、親は出生率を上げるインセンティブをもつ。しかし、引き換えに一人当たりの投資額を制限することになるため、教育が十分に受けられない。そのため、子供自身も貧しい生活を送る可能性が高くなる。大家族ほど貧困に陥りやすいことを示した調査報告も存在する。実際に親の出生率を下げない限り大家族化してしまい、貧困の罠に陥り続けるため、出生率を下げることが求められる。また貧困国のみならず、人口増加が世界全体にとって脅威になる。現在世界中で紛争が起きているが、「現在のアフリカに見られる数々の紛争も、飢餓や貧困に悩むコミュニティの秩序の悪化に端を発したものが多い」と考えられている。
そして、これを解決するための方法として、人口転換を挙げている。死亡率が高いために、親は出生率を上げるインセンティブをもつ。よって、死亡率を下げることで出生率を下げるインセンティブを親に持たせ、人口増加を抑えようとするものである。幼児死亡率を減少させるために、「予防接種や安全な飲み水」、避妊具を政府が提供し、実際に効果を上げた例もある。
本書を踏まえての考察
本書では、上記のような問題が挙げられている。これらの問題は独立した個々の事例ではなく、複合的に絡み合っている。そして、我々人類に、近い将来大きな影響をもたらしうる要因である。貧困国のみならず先進国に住む人も含めた、地球人全体の危機なのである。その危機がいつ来るのかは分からない。自分の人生が終わった後なのかもしれない。そんな先のことを考慮して行動を変える等非合理的な者の為せる業なのかもしれない。しかし、それは必ずやってくる。向き合わなければならない現実なのである。
しかしサックスは、こうした問題は公共政策により解決が可能であるとしている。詳しくはここには書かなかったが、実際に取られるべき手段やそれに必要な予算の概算なども出されている。サックスは市場原理に任せるのではなく、公共政策により資源や予算の配分を変えれば十分に前述の危機を回避できると主張している。たとえば、新エネルギーや二酸化炭素排出の機会、炭素固形化の技術への投資や、死亡率を下げるための途上国支援などへ配分を促すことを挙げている。絶望的に見えるが、世界全体の危機を回避する術は残されている。しかも協力することが出来れば、想像より容易に回避が可能である。これがサックスの考えなのである。
しかし、私はサックスの構想する世界が本当に持続可能ではないと考える。サックスは、世界の国々は収束(コンバージェンス)することを前提としている。先進国は経済成長率が相対的に低く、途上国は高く、最終的には同程度の経済水準に収束するというものである。資金と資源を適切に配分すれば、危機を回避しながらもこれを達成できるとする考えは、極めて楽観的であろう。技術に投資することで効率性が上がり、限られた資源を用いて世界人口の生活水準を上げることは可能かもしれない。しかし、それが全人口を網羅出来、且つ現在の先進国程度の水準で均衡するに至るには難しいと考える。これからの技術発展を過信しすぎているのではないだろうか。技術を新たに開発すれば、おそらくまた別の問題も生じよう。投資を新技術に向ければすべてがうまくいくわけではない。
私たちは、おそらく”成長”という言葉を過信しすぎている。成長し発展していけば、そこには今は実現し得ないことが達成できる未来があると信じて疑わない。しかし、今世界は限界に直面しようとしているのではないだろうか。だから私たちは、根本的に異なる世界の在り方を構想し始めなければならないのかもしれない。もしかしたら市場主義経済すら見直さなければならない事態になるのかもしれない。おそらく、成長・発展は今日におけるエピステーメなのであろう。この内面化された価値観に疑問を呈し、相対化、再考することを提案して、この意見表明を閉じることとする。