僕は思考や感情を言葉じゃないと表現できないんだと思う【言語化至上主義】
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2019 年 6 月 11 日に書いたものの再掲です
僕は言語化至上主義なのかもしれません。
僕の知り合いだったら、何を今更と突っ込んでくるのかもしれませんが、今回は今更そんなふうに感じる機会があったのだという話を書いていきます。
(きっかけ)
福岡サンパレス、盛り上がって熱かったぞー‼️
お越し頂いたみなさま、ありがとうございました🙇福岡限定の写真も公開📸みなさまの熱で、雨もライブ終了後まで待っててくれたみたいですねー🌂
次は宮城です🙋どうぞお楽しみに🎵 pic.twitter.com/Js36nXoELW
— 大原櫻子 スタッフ (公式) (@staff_sakurako) June 8, 2019
言語化至上主義とは
これは思いつきで勝手につけた名称です。意味したいところとしては、人とのコミュニケーションや情報という文脈において、言語化しなければ自分で伝える情報(感情や思考)を認識することはできないしまして伝達できないのでは、と思っているという感じです。
そう思い始めたのは、大学時代やコンサルティング・ファームにいたときに研究やコンサル業務に置いて必要なスキルという文脈で考えたときに、論理的に誰が読んでも同一の解釈になるように表現する必要があったからです。しかも共通理解があり前提知識のようになっていることでさえ、それをなぜサポートするのかという論拠を敢えて明示する必要があります。同じ意見であっても論拠によって意味合いが変わってくるからです。そうした厳密な表現によるコミュニケーションを取る中で、それができない人というのは自分の考えをわかっているようでわかっていない、思い込みや勘の類であってまったく意味のない発言だくらいに思うようになっていきました。
そんなタイプになってしまったので、自分にとって自分に対する苛立ちや悲しみであっても、「この場合だったらどうか」「あの場合だったら違うのか」と無限に思考実験を繰り返し感情の根源を探り、結局これが原因でこの感情が引き起こされているのか、と言語化することで認知しコントロールするというのをまぁ普通にやるわけなのです。なので、言語化という行為が不得手で自分のどこから湧き出てくるかもわからない感情をコントロールできず、感情の浮き沈みが常にある上に、それに対処していくこともできない(ストレス発散して忘れるという一時的対処はできるかもしれないが)というのはとても不自由だろうなぁと勝手に思ったりもするのです。
自分の考えていることが自分でわからない。言語化できないというのはそういうものなのではと思っていたのです。
言語化しなくても表現することはできる
今回思ったのはこれです。この気づきを得たのは、昨日大原櫻子のライブに行ったときです。本当はライブに乗り切って、ペンライトやタオルを振り続けて盛り上がり切るところだったのでしょうが、ふとそんな事を考えていました。
音楽というものには歌詞があります。なので伝達手段として言語は確かに使っています。しかし歌詞を超えた曲調やダンス、その他ライトアップや演出といったもので、十分以上に観客にメッセージを伝えてきます。それが大原櫻子という人のパーソナリティやその場の雰囲気といった文脈があることで、大原櫻子のちょっとした発言や音楽に載せられるささやかな言葉に乗せられる意味が増幅されて聞こえるのです。
さらには盛り上がり、大原櫻子やそのファンの人が楽しいや嬉しいといった感情をその場でリアルタイムで感じるがままに体や声で表現していくというのはとてもいいことだと思ったのです。
ノリ切れない、そして少し客観的に言語を並べている自分を俯瞰したとき、こういうときに直感的な言語を介さない表現がうまくできないのはとても不自由だなと思ったのです。
そう、言語化による表現をできない人を不自由だと思っていたのですが、非言語化による表現をできない自分は不自由だなと思ったわけです。
これまで積み重ねてきた伝達手段の利用が、偏っていただけで、あくまで一伝達手段でしかないというところを今更ながらこのライブを通じて知ったわけです。歌って踊って思いを込めて伝え、その伝えられたものにそれまた声や体を使って答えていく、そうしたコミュニケーションのほうが即時性がありながら広汎性も携えているなととても感じたのです。
精確ではないかもしれないけれど伝達範囲はとても広い。こういう情報伝達というのも豊かだしとてもよいなと思ったのです。
まとめると…
といったところで非言語的コミュニケーションを育てようと思うのか、言語化至上主義をやめようと思うのかというと悩ましいところです。非言語により思考や感情を表現するというのは難しい、だから僕なりの表現として文字を書き note に投稿しているという側面がご多分にあります。これは僕がやりやすい表現なのだからそれはそれでよいのではという気もします。
しかし、文字によるコミュニケーションが好きで日本語が読める人にしか伝わらないというのもまた事実で、それぞれの手段の特性により使い分ければそれでいいという感もあります。
そんな御託を並べてじゃあ結局なんなんだよ、という問題は結局あるわけです。とりあえずのところは非言語によるコミュニケーションを極めて多くのメッセージ伝達をしている人に敬意を払いつつ、僕はこのまま言語によるコミュニケーション、情報伝達に努めようかなというのがとりあえず今の所の結論です。今後とも僕の言語化にお付き合いいただけますと幸いです。