飽き性の頭の中

最近自我が弱い気がする

tawachan
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最近自我が弱い気がする

人生における目的というか、なんらかの目的な対して合理的な行為を行う力が弱い気がする

目的にかなっていなくても、社会的に望まれているとか評価されうることをしているか、というのがどうもちらついてくる

学生時代は、インターンとか仕事をするに際して先行してやっておくことには目もくれず、むしろ社会的に役に立たない思想とかに心から注力できていた(気がする)

今でもその価値や必要性は変わらず理解している、むしろより必要だとすら感じる場面も多いがしかし、「仕事をしている」「働くためのスキルアップができている」という状態ではなくなることからの焦燥感も同時に大きく感じるようになっている気がする。

ゆえに、仕事・お金を稼ぐ行為を止めて勉強したりすることに一定の不安を感じる。社会から爪弾きにされてしまっているような感覚。

やはり年も年なのだろう。この段階でアカデミズムに戻る、勉強をするという行為のリスクというか影響の大きさを感じているのだろう。

この選択が人生において、よくも悪くもそれなりに大きな影響をもたらす。その確信が持ちきれないから不安なのだろう。

さらには目的が漠然としていることも大きそうではある。吹けば翔ぶような曖昧さであるがゆえに、地盤が揺らぐというか、熱中しきれないところがありそう。

安定するという意味では、理想の人物像があるとか宗教観念があるというのはとても強い。そういう理想像を思い描きたいがしかし、そういう質でもない

となると、自分でそれを 0 から築き上げるしかない。これは途方も無い作業であろう。宗教を信仰したほうが楽であろう。そういう意味で、突き詰めた結果よくわからない、信じるか信じないかでしかないから、という意味で宗教を信じる人に高学歴もいるというのに一定の理解ができる。

正しきものがないということを知った上で、敢えて何にもすがらないというのが一番つらいし不安なことのように思う。

その選択を迫られているような気もする。だから自我が弱いと感じているのだろう。

仕事をするとか、お金が稼げているとか、生活に苦労していないとか、社会にある程度共有されている「よさ」に自分を当てはめたほうが、物理的に生活が安定するとともに、自尊心を始めとした精神面に置いても安定がもたらされる

不安定すぎるがゆえに、あれもこれも手を出している気がする。選択と集中をしない、選択をしないがゆえに失敗する典型的な経営者のような状況だとも思う

Web 開発もやるしブログもちょっとやるし動画・写真にも興味がある、その上都市開発・構想的なことがいいかもと思っている。有機的な連関が一見薄いように見えるいくつもの事柄を気分のままにかいつまんでいる感じ。

決して望ましい状況でもない。収入もより不安定になる。要するにどっちつかずなのである。

どちらでもよいとは思う。どちらかを選択する自我、選択した方向を維持し続ける自我。これをどうにかして持たなければならないのだと思う。

不安に目もくれず正しさを追求できた学生時代(記憶が美化されている説はある)ほどには若くもないし、人生も少し進んでしまった。26 歳なんて将来から見ればまだなんでもないと思うのだろう。だから別に気にすることなくやればよいんじゃん、という気もする。でも頭でわかっていても当の 26 歳の僕には心からそう思えない、そう簡単ではないというのもまた事実という感じがしている

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