機械にマシン・ネイティブな認識を学習させる可能性
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人間の認識と機械学習
現状、機械学習に用いられるデータは人間の認識が介在している。特に、物理現象・自然現象ではなく、社会現象は不可避的に人間の認識に依存するデータである。経済現象は人間が価値を付けた数値であり、差別や権利の話は人間の認識なしでは存在し得ない。機械学習にとって、人間の認識を介在させることは非効率的なのではないかと考えられる。
言語の制約と機械学習の精度
人間の認識は言語に依存し、そのバリエーションは言語の数だけ存在する。機械学習は、さまざまな色眼鏡をかけてしか世界を認識できない1。この制約を解消すれば、機械学習の精度が向上する可能性がある。ただし、その場合、人間が機械の学習結果を自身の認識に翻訳する別の作業が必要となる。
機械認識と人間認識の峻別
人間の認識と機械の認識を峻別すれば、新しい様相が現れるかもしれない。機械にとって理解しやすい形でデータを与え、独自のモデルを生成させることで、何か新しい発見があるかもしれない。ただし、学習の目的は結局人間の認識に基づくものであり、アイデア自体が破綻している可能性もある。
客観的な現象と機械学習
物理空間などの客観的な現象を分析する場合、人間の認識を無視してデータを与えることで、新しい発見があるかもしれない。たとえば、温度や湿度などのデータを特定の意味で学習させる代わりに、生のセンサーデータを与えてみる。機械がどの位置におけるどの種類の感覚器官なのかは知らないが、機械学習に接続されたあらゆるデータを用いて、地球上のあらゆる箇所に感覚器官をもつ機械が生まれる。その結果、機械は何が起こるかを予測できるかもしれない。人間の認識にはわからないかもしれないが、何かしらの規則・法則を理解するかもしれない。これは人間の認識を前提に組み上げたモデルでは到達し得ないものかもしれない。
人間の認識への翻訳
機械が到達した新しいモデルを人間の認識に翻訳しようとする試みは、自然現象を科学的に説明しようとする試みに近いかもしれない。また、全知全能の神の意思を推し量ることに近いとも考えられる。人間には認識できていないだけで、機械には認識された法則を理解しようと努める方が生産的かもしれない。
新しい方向性の模索
このような方向性を模索してみると面白いかもしれない。適切な宗教・神を作り上げることになるかもしれない。そのためにも、機械を人間の認識という制約から解放してみると、新しい発見があるかもしれない。
Footnotes
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とは思ったけれど、言語であろうと機械にとってはただの情報の羅列なのだから、人間の認識に成約されているとは必ずしもいえないだろうか。機械にとっては等しく外界の情報なのだろうか。しかし、人間の観測し・認識されたものが言語を用いて表現されている以上は、何かしらの制約を課された情報と見ることは妥当であろうか。 ↩