Threadsの登場とBlueskyが安心できる理由 - ソーシャルメディアにおける田舎と都市の比喩
こんにちは、たわです。先日、Threadsが公開されたのを機に、ソーシャルメディアとは何だったのかについて考えてみたいと思う。
ネット上でのコミュニケーションと介在する技術
ネット上でのコミュニケーションには、ほとんどの場合、何らかの技術が介在している。DMのようにほぼリアルと同じようなものから、学校のクラスのように、ある程度知らない人もいるが完全に開けているわけでもない、そんな中間的な温度感の空間までさまざまだ。
しかし、現在はこのような中間的な空間が少なくなっているように感じる。隣のクラスの面白い人と話してみたいのに、大学の説明会の時間が半分くらいあって、話したことない人と話す時間がない、ハードルが高い、というような状況だ。
ネット上でゆるく少し知らない人とも仲良くなれる、そんな面白い人とのコミュニケーションが生まれるのがネットの面白さだったはずなのに、その価値が失われつつある。ネットが発達した世界で、逆にリアルなイベントや勉強会で広げていくしかないような状況になっているのだ。
Blueskyが安心できる理由 - 田舎と都市の比喩
Blueskyが安心できる理由を考えてみると、それは田舎と都市の違いに似ているのではないかと思う。
Blueskyでは、気の知れた人の情報しか目に触れない。個人情報を出してもある程度平気で、どこかに行ったことを呟いても変なことをいわれない。この人はこういう人なんだ、と認知される。合わない人は見ないだけだから、クソリプや炎上もない。ビッグデータの解析や企業のマーケティングに情報が利用されることもあまりない。
これは田舎に似ている。鍵をかけなくてもいい。どうせみんな知っている中だからそもそも周りにバレる。個人を知らなくてもあのアイコンの人ねと認知できる規模にしかタイムラインがならない。
一方、近年のインスタグラムやツイッターは都市化された空間だ。見知らぬ人が紛れ込んでいる。家には鍵をかけて防犯対策が必須。個人情報を垂れ流すのは厳しく、いうことを選ばなければならない。隣の人にいちいちどこに行くとかいわない、聞かれない。
時代の変化と価値観の違い
Blueskyの世界観を知っている2000年代にネットを嗜んでいた人は、ある意味田舎者なのかもしれない。逆にこれを知らない世代の人には伝わらないかもしれない。
インフルエンサーと呼ばれる人たちのように、多くの人とやりとりすることに価値を感じる人もいるだろう。彼らは田舎よりは都市に住みたいと思っているのだろう。たぶん僕が田舎生活を知らないのと同じで、SNSは現在の形をデフォルトとして知った人は違和感も覚えないのだと推察できる。
都市化の不可避性とゾーニングの可能性
価値観の問題であり、時代は進むのである程度は不可逆であることを受け入れる必要がある。都市化自体は不可避なので、日本全体の生活が牧歌的な生活になることはないだろう。
しかし、ゾーニングとしてそうであるところとそうでないところを選ぶことは現状できる。田舎に住むことは可能だ。SNSでそのゾーニングがされるのだろうか。
Bluesky以外は概ね都市化された空間になるかもしれない。都市化されないとサービスとして収益化されて維持可能にならないのも分かる。田舎である前提で維持可能な仕組みであってもらわないと、田舎的SNSはジリ貧なのかもしれない。分散型ならではで、各々が自費で運営するなどの方法はありそうではある。
ソーシャルメディアの変化とともに、我々のコミュニケーションのあり方も変わっていく。その中で、自分にとって心地よい場所を見つけていくことが大切なのかもしれない。田舎的な空間を求めるのか、都市的な空間に飛び込むのか。それぞれの選択があっていいはずだ。