環境を変えて当たり前水準を上げることが成長への近道だと思う
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こんにちは、たわです。たまには自分の考え方について書いてみようと思います。
ということで、今回は、勉強とか何か努力をしようとするときに自分が今までの人生でやってきたことについてまとめます。
僕の心配性な人生
僕は、基本的に心配性でした。今もかなりそうだと思います。
たとえば、エンジニアとして転職したときも、
- これくらいできて当たり前
- これくらいできないと恥ずかしい
とどうしても思ってしまうことが多いのです。
最近ではこれがエピソードとして挙げられますが、人生毎回フェーズが変わるたびに思ってきたし、後から振り返ると実はこれがいい結果をもたらしていたのかな、という感じがしています。
高校受験は「蛍雪の功」をイメージ
時はさかのぼり、中学生時代の話になります。
公立の中学校に行き、受験にもまったく興味のなかった自分でしたが、なぜか高校生になるためには受験を頑張る必要があるものだと強く思っていました。
おそらく塾での国語の授業でたまたま出てきた「蛍雪の功」という言葉にかなり影響されているように思います。
中国、晋(しん)の車胤(しゃいん)は家が貧しくて油を買えなかったので、夏には蛍を集めて袋に入れ、その光で書を読むなど日夜勉学にいそしみ、ついには出世して尚書郎(しょうしょろう)となった。
灯りをつけることも難しい時代でも必死で勉強したのだから、灯りのある現代ではみんな必死に受験勉強をするものだと思っていました。
なので、自分もそれくらいの意気込みでやっていかないと到底太刀打ちできないものと本気で思っていました。
今思うとそんなふうに真面目に受験勉強を仕切る人なんて少数派だと思いますが、それでも当時はそう考えていたのです。
なので、
- 毎日 18 時ごろに部活動が終わり
- 一瞬帰宅し菓子パンをかじり、
- 22 時まで塾で勉強し
- 晩御飯の後 26 時まで過去問を解く
というような生活を中 3 の 1 年間は送っていました。
それでも大変とか、つらいとかはまったく思っておらずむしろ楽しささえありました。それも至極当然のことと思っていたからでしょう。
結果的に第一志望の高校に行けたのですが、今思うとそれはまぁここまでやれば行けるだろうな…という気もします。
高校や大学へ行ったときも心配だった
高校のときは自分の同じくらいの学力の人ばかりが当然集まるので、その中でも遅れずやっていけるのかな…とかなり心配でした。最初はかなり高校生活が億劫だったことを覚えています。
高校のときよりはマシでしたが、大学のときも同じくちゃんとやっていけるか心配が大きかったです。
新卒で会社に入るときは高校のとき以上にかなり心配していました。
当たり前の水準を常に高く持って(しまって)いた
僕はどのようなわけかとても心配性な性分だったので、常に当たり前の水準を高めに持ってしまっていました。
中学生時代も、「蛍雪の功」をイメージして、実際よりもかなり高めに、中学生が勉学に励むあるべき姿を想像していました。
社会人になるときも、社会人としては
- 〇〇ができないといけない
- ☓☓ ができて当然
といったハードルを課していました。
80 点が合格点だと勘違いする
僕は、比喩的な考え方ですが、学生・社会人としてあるべき姿のイメージを点数でいうと 80 点くらいを最低ラインとして考えがちのようです。
なので、なんとかその最低ラインを超えられるように自然と努力します。当たり前なのだから、人より頑張るとかではなく普通にやる、という感じです。
でもしばらくすると気付くこともありました。案外みんな 60 点とか取るんだなぁと。
そして、さらに気付くのです。60 点でも許されるし、なんなら 60 点が最低合格ラインなのでは…と。
結果的に人よりちょっとできる
こんな性格なので、やったことに関しては、平均よりはできるようになることが多いです。
それは努力家だからとか頭がいいからというわけではなく、単に心配性だから自然と培ってしまっていた、という解釈のほうが正しいように思っています。
無駄に心配性なのである種不自由な性格でもある気がしますが、結果としていろんなことができるようになったのでよかったなと思っています。
当たり前水準が高い環境に身を置く
僕は勝手に当たり前水準を少し高めに認識する都合のいい性格です。
でも性格にかかわらず、環境そのものの当たり前の水準が高いということはとても大事なことだと最近感じています。
当たり前のことは努力と思わない
当たり前ではない、+ α のことを頑張ろうとするとそれだけ精神力・忍耐力が必要です。
頑張り続けることは簡単ではなく、途中でやめてしまうことも多いでしょう。周りに流されて結局あきらめてしまうなんてことも。
ですが、当たり前の水準が高い環境に行くと、自分が努力しているともあまり思いません。
頑張らないという選択肢が実質なくなりますし、周りが頑張っているのだから自然と頑張れるように思います。
1 人で頑張るよりよい環境に身を移す
僕は努力が嫌いです。精神論で猪突猛進に頑張る! ということが基本的にできません。
なので、
- 自分より優秀な人のいる場所に行く
- 自分の欲しいスキルのもつ人のいる職場に行く
など、してきました。
大学時代のサークルや友人づきあいも、転職もこのモチベーションがかなり強いです。
こうした環境を変えることは努力ではなく、その瞬間の決断だけでできるので、何年も継続するより簡単です。
環境が変わってしまえば、環境の当たり前水準に到達するまで自然と頑張れます。
そしてその当たり前水準は全体から見ると高めであれば、自分も全体よりも高い水準で何かができるようになっていて、結果的に心理的に苦労せずに成長できるという仕組みです。
まとめ
僕は性格の都合上たまたま無意識に当たり前水準を高く持っていたので、それが人生にいい影響をもたらしていたように思います。
心配していただけで苦労したという自覚はあまりないので、周りの人からは「人生イージーモード」だよね…と揶揄されることもありますが、サボっているわけでもないので許してほしい、とも思っています。
苦労することは美徳でもないですし、苦労を感じずに努力して何かができるようになることに越したことはないはずですので、ぜひ闇雲に頑張るだけではなく、当たり前水準の高める環境変化を作るのも 1 つの手かもしれませんよ、というお話でした。
※ 今回の記事は、次の note を整理し直した内容です。