「公平な観察者」の政治哲学的意義—社会正義の不偏性|アマルティア・セン『正義のアイデア』
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こんにちは。
今回は、前回の記事で触れたアダム・スミスの「公平な観察者」に関連したアマルティア・センの議論を見ていきたいと思います。アダム・スミスのこの考え方は古いというイメージが有りますが、これには現在的な価値があると主張されていますので、その点についてまとめます。
『正義のアイデア』の中での「公平な観察者」の位置
アマルティア・センは著書『正義のアイデア』の中で、アダム・スミスの「公平な観察者」は社会正義の不偏性という点に関わるといいます。
社会正義の不偏性の問題は、正義を理解する上での中心的な位置を占めていますが、その不偏性には2種類あります。
閉鎖的不偏性
「閉鎖的不偏性」は、「不偏的判断の過程に関わるのは、その判断を行う特定の社会や国家の成員のみ」であり、「開放的不偏性」は、対象となるグループ以外の判断もとりいれることが」可能な概念です。つまり、あるグループの中だけで通用する決まりのことを指します。
閉鎖的不偏性の例として、著書の中ではロールズの「公正としての正義」が挙げられています。原初状態での社会契約は、あくまで成員(=国民)に限られるものであり、その外部は考慮されていません。また、アローの一般不可能性定理で想定されているような意思決定に関しても、特定の社会の中でのみ通用するものでしょう。
開放的不偏性
閉鎖的不偏性に対になる形で挙げられるのが、この「開放的不偏性」という考え方です。要するに、ある規則が特定のグループや社会に限られず、その枠を超えて妥当するような内容となるということです。そしてこれをもたらすのが、「公平な観察者」となります。
閉鎖的不偏性の問題
閉鎖的不偏性の問題は次のように3つに分けられるといいます。
第一に、正義とは、部分的には互いに対する義務が重要となる関係だということである。〔中略〕他人に寛容で親切であることは非常にすばらしいことであるが、我々は隣人ではない他人に対して本当に何の義務も負わないと論じることは、我々の義務の範囲を非常に狭く限定してしまうことになる。〔中略〕
第二に、ある国における行動は、ほかの国における暮らしに深刻な影響を与えることもある。〔中略〕
第三に、これらに加えて、ほかの場所から来るすべての声を無視してしまう偏狭主義に陥る可能性に関してスミスが指摘している論点がある。ここでもポイントは、他の場所の声や見解を考慮しなければならない理由が、それらがただ単に存在するからではなく、他の場所における異なる経験を反映した異なる視点を真剣に精査し、考慮することが客観性のために必要だからである。
これらの理由から、開放的不偏性が社会正義を考慮する際に重要となってきます。そして、「排他的無視」(たとえば、アフリカなど日本外の問題を無視すること)を克服するために、「公平な観察者」という考え方を用いることができます。
公平な観察者はあくまで、胸中に形成した”観察者”であり、社会の成員(参加者)とは関係ありません。つまり、境界を越えたコミュニケーションの中で「公平な観察者」を形成していけば、境界外に対しても正義を形作ることができ、それは理論的に問題とはならないはずです。
つまり、グローバル化が進み、国外の情報が氾濫している現代社会にこそ意味をもつ考え方の 1 つといえるでしょう。地域や国を超えた正義を考える際に、再考の価値のあるアイデアです。
最後に
アダム・スミスはいわば古典です。しかし、経済学的にも政治哲学的にも再び見直す価値のある学者である。そしてこうした政治学(政治哲学)の側面からもこのアダム・スミスを見直すことはとても意味の有ることだと思います。
国家という枠にとらわれない正義・価値の在り方、という視点をこの議論は与えてくれていると思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。