キレイごとは所詮キレイごとなんだけれども、誰かが語らないと結局何も変わらないと思う。
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今回は【キレイごと】についてです。最後まで読み流してもらえたら嬉しいです。
キレイごとを言いがちな僕
突然ですが、僕はキレイごとを言いがちです。もはや好きといえるレベルです。
上司から事実上のサービス残業を強いられたという話を聞けば、
労働なんて対価があって初めて拘束力を生むんだから、対価なしに残業させようなんて職権を逸脱した行為であって、従う必要なんて皆無、皆無!
と第一声に言います。間違いなく言います。
NHK の視聴料(?)の話を聞けば、
視聴というサービスを受けるということを承諾したわけでもないのに、そのサービスへのアクセスが可能であるという事実のみで、契約を強制するなんて意味がわからない。 それなら、僕が全世界から URL を叩けばみれるこのブログの閲覧料 100 円を、世界中の(ネットを使っている)人からせしめてのいいのかい?
と絶対言います(法的には根拠があるのかな? それでも正しいとは思ってない)
昔から、「現実的に」 「現状仕方がない」といった発想が嫌いで、 いつも「そもそも」 「元を辿れば」という枕詞から何かを考え始めるフシがあります。
きっと、常識とか現実的な制約条件を取っ払って、
- 正義/善とはなにか
- 人間の生の価値とはなにか
なんてことを学部時代に考えあぐねていたせいだと思います。 いや、間違いなくそうです。もはや病気のレベルです。
キレイごとは嫌われがち
キレイごとは基本的に好かれません。
上のようなことをいうと、否定的な反応が返ってくることもしばしばでした。
「そう思う、理想的にはね」
と。
でもそう反応をあんまり気に留めていませんでした。
常識に埋もれ視野狭窄になっているか、現実を受け容れ搾取に甘んじてしまっているというくらいにしか思っていませんでした。
ですので、否定的に見られてもそれは自分が間違っているというふうに感じることはなかったのです。
事実を目の当たりに
媒体を通して見聞きした机上の空論としての問題を、 社会人になってから事実として目の当たりにすることになります。
そう、労働問題ですね。
ブラック企業やら、長時間労働やら、サービス残業やら、問題山積みの分野ですし、僕が敵視していた問題でもあります。笑
元々、長々時間労働なんて強いられそうになれば、否を唱える所存でいました。
組織を回す管理者が、作業者の稼働時間を延長して業務を遂行しようとするのは、安直かつ劣悪な手段であり、付き従う必要はないと思っていたからです。 人員を増やすとか、提供するものを減らす/遅らすとか別の手段を取るべきであり、作業者に恒常的に平気でシワを寄せてくるのは非人道的だとすら思っていました。
ですが… こうした事実を事実として認識して、リアリティが出てくると、こうした考え方の印象が変わってきました。
たとえば、人手が足りなく納期に間に合わない、といった状況に目の当たりにした時、この姿勢を貫ける絶対の自信があるかといわれれば、そんな自信はないなと思ったのです。
具体的な状況が分かるようになればなるほど、自信がなくなっていきます。やっぱり自分の考えていたことは机上の空論だったのかな、と感じるのです。
理想と現実の狭間
今、理想ばかり掲げてきた過去と、現実を見せられつつある現在との狭間にいるのです。
現実を受容する
働き方に問題はある。でも現実的にはみんなそうだし仕方がない。我慢する。
これはよくある心の落ち着け方なのかもしれません。
確かに働くというのはそういうものだし、それが普通だと思えば納得してしまえそうなのも今では分かります。
- これが社会の厳しさか…
- お金を稼ぐのは簡単じゃないんだな…
という風に認識を改めて、これから日々頑張っていかなければならないのかなと一部で感じています。
それが社会で生きるということなのかもしれません。それが現代における大人になるということなのかもしれません。
理想的ではないし、次善的でしかないのかもしれないけれど、 そんな現実の中で実際的にどうしていくか、これは理想論よりも重要な意味をもつのかもしれません。
なぜなら、改善されるべき問題はあるにせよ、僕たちは今を生きているからです。時間は日々過ぎ去っていきます。
きっと、日々の長時間労働を批判する根拠を 10 個考えるより、ちょっとした時間でも楽しめる方法を 10 個見つける方が、今という瞬間を幸福にできるでしょう。
長時間労働の中ででも、精一杯楽しいことや嬉しいことをしようとする発想は重要でしょう。なんとか育児や家事をやりくりしようとする姿勢は重要でしょう。
理想を追求する
このように、現実を受け容れることが大人になるということの証なのかもしれません。
しかし、それでも僕は理想を捨てきれないと思います。
確かに、キレイごとを言っても目の前の現実は変わりません。何も変わりません。はっきり言ってほとんど無意味です。思考は外界に影響を及ぼさず、少なくとも直近の現実の変化という結果はもたらしてはくれません。
しかし、やっぱりおかしいと思うのです。
長時間労働やサービス残業は正しくないと思います*1。
それに甘んじてしまうのは、良くないと思います。自分の望み、意志を誰かが主張しないことには、一向に状況は改善しません。
キレイごとを誰かが考え、それを言葉や行為として表現することで、ようやく変化は起こっていくのではないかと思っています。
だからキレイごとを言い続ける
キレイごとはキレイごとでしかないということはわかりました。
きっと最初に言い始めた人は、「現実を見ろ」「何甘いこと言っているんだ」と白い目で見られたことでしょう。
しかし、労働環境に限っていえば、日々事態は好転しているようにも感じています。 肌感ですが、長時間労働を美徳と考えている人は時代遅れといえるくらいの一般認識になってきているように思います。
日々、根拠を持って正しいと思うことを言い続けていれば、キレイごとだと批判され否定されることがあったとしても、長い目で見れば変化になるのではないでしょうか(説得的であれば?)。
だから、キレイごとはキレイごとでしかないのかもしれませんが、それでも僕はキレイごとを言い続けます。
*1:何を持って正しいのかという話はとりあえず横に