【書評】ノーベル経済学者アマルティア・センの『正義のアイデア』について考えてみた
今回は、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者の著書、『正義のアイデア』について書いていきたいと思います。
はじめに
アマルティア・センは経済学に関してで随所に登場する、ノーベル経済学賞を受賞したインド出身の経済学者です。 人間開発指数(HDI)や人間の安全保障などの先駆者でもあるので、この名前を聞いたことある人も多いかと思います。
その中でも、正義について広範に議論がなされている『正義のアイデア』を紹介します。600 ページ以上にもわたる大著ですが、大きく2点に絞って今回は書きたいと思います。ちなみに、ケイパビリティ・アプローチについても言及されていますが、その内容についてはここでは触れません。
本書について
本書は著作名にあるように、正義に関して広範に再考されています。さきほども言ったように、(1) 正義のアプローチ、(2) 正義の範囲の2点について簡潔に触れようと思います。
正義のアプローチ
まず、1点目の正義のアプローチについてです。本書では、過去に議論されてきた正義へのアプローチに関して、【先験的制度尊重主義】と【実現ベース比較】の2つを挙げられています。
先験的制度尊重主義
まず、先験的制度尊重主義は次のように説明されています。
第一に、正義と不正義の間の相対的な比較ではなく、「完全なる正義」のみに関心を集中する。〔中略〕第二に、先験的制度尊重主義は完全性を求めて制度を正すことに集中し、最終的に現れる実際の社会に直接、焦点を合わせようとはしない。(p.37)
このように、唯一の理想状態を構想するアプローチが先験的制度尊重主義と呼ばれています。つまり、演繹的に理想像を追求していく方法で、その理想以外の状態は同等に理想的でない状態として扱われますので、理想的でないものの中で、より理想に近いものはどれか、といった比較はアプローチの性質上できないことが特徴となります。ホッブズやルソーなど社会契約論に見られる議論です。最近では、ジョン・ロールズの【公正としての正義】もこちらに分類されます。
実現ベース比較
これに対して、実現ベース比較のアプローチは、「完璧に公正な社会を先験的に追求することに閉じこもるのではなく、現実に存在するか、あるいは現れる可能性のある社会の比較に関わって」(p.39)おり、「現実の明白な不公正をこの世界から取り除くことに主たる関心(p.39)」があると説明されています。つまり、理想像は設定せず、現実や現実にあり得る可能性のある状態の中で比較をし、相対的に望ましいものを比較し選び取っていくということです。
正義の範囲
次に、正義の範囲についての話に移ります。社会正義を考える上での、その不偏性の議論の重要性が議論されています。本書では「閉鎖的不偏性」と「開放的不偏性」という分類が挙げられていますので、その説明をします。
閉鎖的不偏性
たとえば、ロールズの場合は、原初状態という仮説的空間を用いることで、社会契約論のような根拠を持って、公正としての正義を正当化しています。そのため、契約をする主体である政治的共同体(国家)のみが正義の対象となります。よって、その共同体の中で同意された正義が、対象となる共同体の外でも妥当するとは限りません。この意味で、正義の不偏性は、共同体の外に対して閉鎖的であるいえるので、【閉鎖的不偏性】と呼ばれます。
開放的不偏性
これに対する開放的不偏性の例として、アダム・スミスの「公平な観察者」を挙げられています。この考えでは、人は、他人のとの関わりの中で他人の評価に晒され、自分の中に徐々に客観的な指標を築き上げていくというメカニズムから成り立っています。おそらく、幼少期を考えれば分かると思います。小さい頃は、親や先生に褒められたり、怒られたりしながら、何が良くて何が悪いのかを経験的に学び、それがいずれ自らの基準になっていくという行程は想像に難くないのではないでしょうか。
つまり、関わる人の範囲が正しさの源であり、同じ政治共同体に属しているかは、必ずしも問題ではありません。共感を得ることができる範囲がその正義の妥当する範囲となります。そのため、共感する範囲が広くなれば、その分正義が妥当する範囲が広くないり、共同体の枠を超える可能性をもつこととなります。
この効能として、閉鎖的不偏性では起こりうる排他的無視を回避できる点が挙げられます。閉鎖的不偏性の正義においては、閉鎖空間外の問題に対しては正義が妥当せず、そもそも問題として扱われることがなくなってしまう可能性があります。この意味で、閉鎖空間内で妥当する正義は限定的なものといえるでしょう。それを開放的不偏性においては回避ができるのです。
コメント
上のポイントについて、議論をします。
正義のアプローチについて
私は、この両者とも重要な視点である。まずすでに述べたように、実現ベース比較のアプローチは現実社会を比較する中で、よりより社会を選択し不公正を減らしていくことができます。絶対的な理想像は示すことはありませんが、実社会の改善のために実用性があるといえます。これが、先験的制度尊重主義に対する優位性です。
しかし、ここで1つ問題があると私は考えています。それは合成の誤謬の問題です。つまり、1つ1つの事象を個々に改善していったとしても、それが全体として改善であるとは限らないということです。また、1つの社会を改善していったとしても、世界としては改悪になってしまう可能性があるということです。要するに、実現ベース比較のアプローチは、急を要する不正義の削減においては重要性をもつが、長期的に全体として望ましい形に結果するかを保証するものではありません。
ここで意味をもつのが、先験的制度尊重主義だと考えています。このアプローチは、すでに言ったように、理想と現実の比較をし目指すべき方向性を提供はできるが、理想とはかけ離れた現実同士の比較はできません。単に理想とは異なるという事実のみを提出し、その程度については言及できませんが、実現ベース比較のアプローチに欠けていた長期的な方向性を提供できると思います。そのため、どちらにも欠けている要素を補い合う相補的な関係にあるといえるでしょう。
正義の範囲について
私は、開放的な不偏性を考えることは、理想的には望ましいが、現実的には困難な議論だと思います。実際に、難民問題への無関心など、政治共同体の空間外の問題を大きく扱わないことはしばしば存在しています。
開放的な不偏性は、そのような世界に存在する不正義を論題に上げる可能性があるので、重要な意義を持っています。しかし、開放的不偏性をもつ公平な観察者の実現には必要である、自己の生活空間を超えた共感は困難なのではないでしょうか**。自分の実感を越えた空間の事象に関して、自分のことかのように引きつけて同感することを要請することは現実的ではないと思います**。よって、この非現実的な想定の上に成立する開放的不偏性は、多くの人に納得のいく妥当性のある議論とはいえないでしょう。
まとめ
この本は大変内容が濃く、一度ですべてを理解するのは難しいでしょう。その都度気になった点を少しずつ見ていくことで、他の学者の議論との関係性や、センの議論の意味が見えてくるような気がしています。
セン自身の議論のみならず、これまでの議論の整理がなされているという意味で、とても有意義な本だと思いました。大学1年のときに1回、3年のときに1回読みましたが、未だによくわかってはいません。ですので、今後も正義については考えてみたいと思います。