飽き性の頭の中

【2/21(金)締切】第66回日米学生会議〜大学1年で参加する意義とは?

tawachan
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今回は、私が 1 年半前(つまり大学 1 年の夏)に参加した日米学生会議への参加意義について簡単にまとめておこうと思う。また、大学 1 年の段階で参加する人は例年少ないため、現在高校生で参加を考えている人の参考に少しでもなればいいと思っている。

もう公式にあがっている情報はひととおり把握しているという方は「まず日米学生会議とは」は読み飛ばしてかまわない。

まず、日米学生会議とは

1934 年に発足し、今年で 66 回目を迎えるこの類の学生団体ではもっとも歴史がある。「満州事変以降悪化しつつあった日米関係を憂慮した日本の学生有志により創設された」学生団体である。

しかし、現代を考える上で、日米関係のみを見ることは極めて偏狭に見えるかもしれない。私自身もそう思うし、日中、日韓を始めとするアジア関係も重要であろう。第 66 回日米学生会議実行委員長小松崎遥平氏がダイガク.TV のインタビューでこのように述べている。

日中、日韓ももちろん重要であるが、日本のアイデンティティを考える上でアメリカは外すことができない

私自身、日米関係のみではないことを認識した上であえて日米の重要性を主張するこの姿勢に極めて好意的である。

これが、公式で公開されている情報の中で強調しておきたい点である。具体的なコンテンツ等は次のリンクから情報を得てほしい。

主軸となる分科会だけは載せておく。これに興味をもった方はぜひ上記のリンクから詳細を見ておくことをお勧めする。

  1. Art and Identity(芸術とアイデンティティ)
  2. Environmental Initiatives for a Sustainable Future(環境問題における国家、企業、市民の役割)
  3. Immigration in the Modern Era(移民の功罪と展望)
  4. Modern Consequences of Historical Education(現代における歴史教育とその社会的影響)
  5. Morality and Justice(正義と道徳)
  6. Smart Power in US-Japan Relations(日米関係におけるスマートパワー)
  7. Technological Advancement and Society(技術進歩と社会)

さて、以下からは本題に入るとする。

① 日米学生会議——2つの異なる意義

私自身第 64 回日米学生会議に参加し、大きく分けて 2 つの意義があると考えている。

まず、1 つ目は、参加以前までの学生生活における学びをアウトプットする場としての意義である。日米学生会議は、名前とうってかわり、参加者が極めて多様である(私のときは医学部生が 5 人ほど)。つまり各々の専門から見た見解を表明することにより、自らの専門からの知見とは異なる視点を得ることになる。いわば、自らの大学生活の中での学びの集大成的な意味合いである。

2 つ目は、多様な参加者と横でつながり、自らの進路選択を拡大させ、確定させる場としての意義である。前述のとおり、参加者は多様なのである。しかしそれは専門のみならず学年もである。下は大学 1 年から上は修士 2 年までいた。そうした人たちと同期として俗にいう「タメ語」で話すこととなる。別にタメ語なことがポイントであるわけではないが、院進学や就活、就職(一度就職して院に入った参加者もいたので)などを、先輩方の「ありがたいお話」としてではなく、フラットな関係の中で聞き、また感じることができた。そのため、そういう遠いお話ではなく身近に感じられ、またそのために何が必要かということを早い段階で考えることができたように思う(考えただけで実行できたのかは残念ながら別の話なのだが…)。つまり、大学生活の方向性を幅広い選択肢の中から正確に確定させる意味合いである。

読者の中にはお気づきの方もいるかもしれないが、この 2 つの意義は基本的に両立しない。だから、どちらの意味合いで自分は参加したいのかを熟慮すべきであると私は考えている。参加者は大学 3 年以上が多かった印象なので、多くは 1 つ目の意義をより持っていたように思う。逆に 1 年生や 2 年生の早い段階で参加する場合には 2 つ目の意義の側面が強くなる。自らの専門は極めて浅いため、議論に対する専門的な貢献は少ないながらも、(良くいえば)枠にはまらない視点から議論に加わることになる。そのため、周りから吸収できるものは多いはずである。

私自身は結果論でいえば、2 つ目の意義が大半を占めていた。当時決してそのような意義を明確に持ち参加してはいなかったが、結果としてそのような意義があったと結論づけた。その点では満足しているが、やはり議論に貢献し専門的な知見・視野の拡大という意味ではまったくと言っていいほど意味はなかった。なぜなら叩き上げる自らの土台そのものがまず十分に形成されていなかったのだから。その意味では大学 1 年ではなく、3 年や 4 年の段階で参加すれば、また有意義であっただろうと後悔することもある。

② 大学 1 年でも参加すべきか——する意義は大いにある!

早い段階(特に大学 1 年)で参加することを考えている方には、ぜひ応募を薦めたい。なぜなら、自分に足りないものが良くも悪くも明確にされてしまうからである。私自身、幸いにも高校生で応募したにもかかわらず合格させてもらえたため、多少の自負はあった。しかし、フラットに関わることができるということは大学 1 年であろうと対等に扱われるということと同義でもあり、自分には何が足りないのかを痛いほどに知らされることとなった。その辺は最初にある実行委員にきちんと指摘され、色々と考えさせられた。だが、当時の私にはよくわからなかった。結局最年少参加者というレッテルに甘んじた点は大きくあったと思っている。

事後談ではあるが、あのとき何が足りなかったのか、ではどうすればいいのか、ということが今では分かる気がする。なぜなら、あらゆる方面での 1 つの成功例として同期が存在していて、その人達とは何が自分とは異なるのかをすでに感じているのだから。あらゆる可能性を知り、その上で残りの 3 年半の学生生活を構成できることは極めて恵まれた機会である。

もちろん、このような機会は日米学生会議に求めずとも他にあるという方は、やはりもっとも重要な上記の 1 つ目の意義のため、自らの専門知識の基盤を築いてから、つまり大学生活の後半での参加を薦める。ここでは、早過ぎるのではという懸念に対して、早く参加することにはまた別に、そして貴重な意義(つまり第 2 の意義)があるということを述べるにとどめておく。

前述のとおり、何が必要かを知ったところで、それが実行できるかはまた別の話で、自分がこの貴重で恵まれた機会を最大限活かせているかというと自信はない。しかし、少々マジョリティーとは異なる方向に舵を切っている自分であるが、この経験のおかげで取り立てて不安はない。あとは自分がどうするかの問題だと思っている。

長くなってしまったが、最後に重要なのは、この貴重な機会を通して自分が何をできるかであろう。私の上げた 2 つ目の意義は結果論であり、最初からそれを目的としてしまっては得られないものであるとも思う。だから、”この自分”が日米学生会議に参加することで何ができるか、どのように貢献できるかを明確にしておくべきであると思う。これさえ達成できれば、結果・意義については保証できる。日米学生会議はそういう会議である。

参考になったのかは些か疑問でしかないのだが、参加を考えた方はぜひ参加申し込みしてはいかがだろうか。