飽き性の頭の中

修士論文を書き終わり結果が出たので所感を書く|修論ではよほどのことをしない限り落ちない(はず)

修士論文を書き終わり結果が出たので所感を書く|修論ではよほどのことをしない限り落ちない(はず)

tawachan
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2023 年 3 月に政治学(正確には政治理論)の修士課程を修了しました。

本当であれば、結果が出てすぐ——2023 年 3 月初頭——くらいにこの内容を書こうとなんとなく頭にあったのですが、そこからはや 3 ヶ月以上も経ってしまいました。

結果が出る以前は、概ね修士論文大丈夫だろうとは思いながらも、落とされる——つまり内定をもらっている就職先に行けないなど諸々予定が狂う——可能性がゼロではないために不安に思う人もちらほらいました。

しかし、実際には体感より落とされることはほとんどないと思うのでその所感を簡単に綴っていきたいと思います。基本的には個人的な体験ベースで書いていきますので、適宜自分のケースと合いそうなところと合わなさそうなところを見分けていただければと思います。

ある程度文脈を捨象した修士論文の話

そういう情報整理的な話は、次の記事がまとまっていそうなのでそちらを参照すればいいかもしれません。

個人の体験談

ここでは、私の体験という文脈をある程度残して主観的な話をしていきます。

専攻・背景

冒頭にも少し書きましたが、まず専攻は政治理論です。政治哲学とも呼ばれます。

政治関連の専門の中でも、実証系とも違い、基本的には文献を研究するものです。どちらかというと文学部で哲学をやるのと手法は近いかもしれません。

その他の個人的な背景はこちらを見ると分かるかもしれません。

インプットの質が最低限あればいい

色々考えた結果、修士論文はインプットの質が最低限あればいいということなのではないかなとなんとなく思っています。

修士論文を書く際に、色々は文献理解や分析手法を会得していく必要があるでしょう。それらと向き合って、なんとか自分の研究につなげていくことが最初の課題でしょう。

おそらくこの部分で大筋を間違えていなければ基本的に大きな問題にはならないと思っています。政治理論の場合ですが、特に先行研究の理解が不可欠です。

複雑な論証を読み解き、それを整理・理解する必要があります。当然最先端の研究でも、先行研究の理解が割れることがあるので、正解がある作業ではもちろんありませんが、明らかに表現されている情報を元に「明らかに誤解」であるということがなければ、それはそれでいいのではないかと思います。

要すると、研究の基礎となる、先人の知恵を適切に自分の中に消化していけるかどうかが重要なのではないかと思います。

加えてアウトプットの練習をする

ここが難しいところで、多くの人を悩ませる点だと思います。私自身も、インプットすること自体もちゃんと難しいのですが、それらを踏まえて何かしらの論証をしようとすると、さらなる質的な難しさを感じます1

アウトプットしようとすると、インプットの部分が意外と揺らいでいて、全然アウトプットをしていけない、という感覚もしばしばでした。

しかし、この観点はあくまで「練習」なので、ここを修士論文の当落の基準にはそこまでおいていないのではないかと思います。

当然、修士課程中から国際学会に出ていたり、論文を投稿している人もいるので、できなくていいと考えるのももったいない気もしますが、少なくともできないからと言って修士号に値しにないとまでもいわないのかなという肌感を持っています。

なので、論証した内容が実はどこかで既出で新規性が実はないとしても、結論が少々飛躍していて論証不足だったとしても、致命的ということにはならないはずです。

少なくともその論証に用いている材料——データ、文献などの理解——が適切であれば問題ないでしょう。A と言っている主張を B だと誤解して用いたり——さらにいえば剽窃——しているなどをしていなければ最低限修士論文として認められうるのではないかと思います。

「ちゃんと先行研究を見て、色々理解して検討すべき論点を提示できてている」のであれば及第点、その論点に何かしらの適切な示唆——つまりアウトプットのほうに計上される基準——があれば尚良し、という感じでしょうか。

教授・先輩に早めの共有をする

上記の感覚をベースに、自分の何が功を奏したかと考えると、教授や先輩に早めに共有できていたことが大きかったと思います。

これは別に自分が意図的に行っていたというよりは、研究科として半期に 1 回の進捗報告会を行っていたことと、ゼミでも最低半期に 1 回個人の発表機会があったので、最低半期に 2 回は自分の研究進捗が詳らかにされる状況でした。

なので、自分の進捗や言っていることが的外れなのかそのままでいいのか、というのが分かる環境でした。これはかなり重要で、あらぬ方向に無意味な努力をしている可能背が減りますし、ここまでは大丈夫そうという肌感があると安心感にも繋がります。

仕事でも同じですが、0 から 100 までまったく他人の目に触れていない「ビッグバン・リリース」するより細かく他人の目をできる限り入れていく事が重要です。恥ずかしいからと隠してある程度自分が納得してから出すという人もいるかも知れませんが、何が正解化もわからない人が1人で納得行くものを出してもたかが知れているので、早めに他人の目を入れていきましょう。

自分の結果・コメントを踏まえて

修士論文自体に詳細なフィードバックはもらえていませんが、若干のレビューコメントはもらえました。それを踏まえても上記の感覚はあながち間違っていないのではないかと思っています。

あまり重大な示唆——つまりアウトプット——を出せたわけではありませんが、論理飛躍していない・堅実な論証をしているという評価でした。つまり、大義のために手元の材料からいえないことを大げさに言ってしまうみたいなことをしていないということでしょう。

アウトプット基準でいえば、意外な結論であるとか珍しい見解みたいなものも重要になってくるかもしれませんが、結論が一見無難で面白くないものであっても、手元にある材料から堅実に真摯にいえることを丁寧にいうことができていれば、それはそれで十分に修士論文としての価値があるのではないかと思います。

その土台がしっかりしていれば、結論の新規性などアウトプットの質もあげようがあるのではないでしょうか——逆にこれがなければ議論・論文の生産が安定するわけがないので偶然アウトプットが奇をてらった感じで面白かったとしても研究としては危ういでしょう。

まとめ

修士論文は学士論文よりもかなり難解な課題でしょう。しかし、博士論文との比較でいえば、ほとんど学士論文よりの位置づけだとも思います。修士の 2 年間で向き合ってきた課題や議論をもとに、真摯にいえることだけを言っていれば十分修士論文足り得るのではないでしょうか。

Footnotes

  1. 修了式でとある教授にこの感覚について言及したら、ちゃんと修士でやるべきことをやっている、と仰っていたので概ね的外れというわけではない気がします。

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