大学生活を振り返る―大学の意義を履き違える大学生たち|J. S. ミル『大学教育について』
今回は、J. S. ミル『大学教育について』についてまとめて、その上で自分の見解を簡単に述べたいと思います。
はじめに
今回は、J. S. ミルの『大学教育について』という本を読んだので紹介します。
この度、私自身が 16 年にも及ぶ教育課程を終え、いよいよ就職することとなってしまったために、振り返りも兼ねてそれっぽいタイトルの本を読んでみた次第です。私のように学校教育を終えようとしている人は、これまでの教育(タイトルにもあるように特に大学教育)とは【一体どうあるべきであったのか】【どうこなすことができたのか】を振り返るにはいい本かもしれません。また、まだ教育過程にいる人は、残りの教育過程を【どう過ごしていくべきか】【どう過ごしたいか】を考えなおし、再出発するために有用かもしれません。
書籍について
この書籍は、『自由論』などの書籍で有名な J. S. ミルがセント・アンドルーズ大学という大学の名誉学長に就任する際の講演をまとめたものになります。ですので、現役の大学生に対して向けられた言葉となっています。
それを次のようなポイントに整理してみてみましょう。
教育について
まず教育を広義の教育と狭義の教育に分けています。
- 広義の教育:人格の完成(直接的影響/間接的影響を含む)
- 狭義の教育:進歩の段階を維持/向上するための伝承
そして、狭義の教育についてこの本では言及していくこととなります。つまり、これまでの進歩を授かり、さらに発展させていく後継者として十分な教養を身に付けさせることこそが教育の目的なのです。
大学教育の目的
そして、その教育の目的の中で大学教育が担うべきものは何でしょうか。本書では次のように書かれています。
大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにあります。(P.12)
ここで分かることは、大学は職業訓練の場所ではないということです。しかし、有能で教養ある人間という部分がまだ不明瞭ですので、また別に部分を引いてみましょう。
学生が大学で学ぶべきことは、知識の体系化についてです。つまり、個々に独立している部分的な知識間の関係と、それらと全体との関係とを考察し、それまでいろいろなところで得た知識の領域に属する部分的な見解をつなぎ合わせ、いわば知識の全領域の地図を作り上げることです。(P.13)
要するに、大学で学ぶことというのは、内容が主たることではなく、むしろそれまで学んできたことを結びつけ全体像を理解するご作法を学ぶことにあるのです。
そして、それを【一般教養】と呼びます。【一般教養】をしばしば【常識】のような言葉と似た意味で用いる人もいると思いますが、各分野の基礎的な知識のことではなく、それらを成立させている方法論を学び取らせることこそが一般教養教育です。
また、大学教育の領域の上限は、「教育が一般教養の領域を超え、個人個人の人生の目的に適合する各専門分野に分岐する時点(P.14)」であるので、ご作法を学ぶまでが大学教育の役割であり、それを実際に行使して専門性を研くのは、それ以降の話ということになります。
真・善・美
大学教育の役割の整理の次に、各学問分野が教育の目的に対して、どのように効果があるのかがまとめられています。本書では、【文学教育】【科学教育】【道徳科学教育】【道徳教育と宗教教育】【美学・芸術教育】の6つに分けて言及されていますが、これらは【真・善・美】の3つにまとめられます。ですので、この3つの項目ごとに見ていきましょう。要点だけ見ますので、詳細は実際に本を読んでみてください。
真:知識と知的能力
ここに該当する教育は上記のうち、【文学教育】【科学教育】【道徳科学教育】となります。これらを入門程度であったとしても、学問に対する興味が喚起されるという意義があります。そして、次のようにこの知識分野の意義がまとめられています。
知識の分野が修得されれば、それは、取りも直さず、自己の責務と一生の仕事が一体何であるかを知ったこと、あるいは知る術を得たことになります。(P.103)
こうした意義のある各分野の説明を下に簡潔にまとめます。
【文学教育】は言葉を正しく使用することに関します。明確に明瞭に言語を使用することが正しい知識には必要であり、そのためにギリシャ語とラテン語の文学がカリキュラムの中に有用とされています。
【科学教育】には、数学や自然科学、論理学などが含まれます。そしてこれは、(1) 現象を理解していることの有用性と**(2) 観察と推論という知性の鍛錬過程としての有用性**の2つの理由で重要です。1つ目の現象を理解というのは、自然現象などさまざまな現象を引き起こす法則を理解していることであり、誰もが自然と知りたいと思うはずだとされています。それに対して、2つ目は、心理の探求の唯一の道筋である【観察】と【推論】を学ぶことができるという意味です。
【道徳科学教育】には、政治学や経済学、法律学などの所謂社会科学が該当します。本書では、「人間の知識体系のなかでは一科学の対象として一般に承認されていません(P.93)」と書かれていますが、現在では社会科学という名称で1つの科学の立ち位置を確立していると考えれば、少し当時と認識が違うのかもしれません**。道徳的・社会的存在としての人間に関する思考訓練に関する教育**ということになります。
善:良心と道徳的能力
上の知識の教育は、教育の半分でしかありません。この良心と道徳に関する教育が残りの半分となります。これは知識ではなく、実行するために必要な【意志】に関する教育となります。「自己の知的側面に対すると同様に、特に道徳的側面に向けられる教育は絶対に必要なもの(P.105)」とされていて、それを直接的に享受する方法は、【道徳教育】か【宗教教育】とされています。
しかし、この2つの直接的教育は、大学の管轄外としています。これらを担うのは家庭や家族であると述べられています。大学はあくまで間接的な教育しかすることはできず、大学や師の気風の伝染や、先人の見識の解説にとどまるとしています。
美:完全性を追求する能力
最後の【美】に関する教育は、教養の主要な2つの構成要素である【知識と知的能力】と【良心と道徳的能力】の補助的な役割を担います。これは、「詩と芸術の体験を通じて得られるもので、勘定の陶冶、美的なものの育成と言いうる教養(P.118)」と表現され、他の芸術も重要だとはしながらも詩的教養がもっとも望ましい芸術だとされています。そして、その効用を次のように説明されています。
詩的教養を身につけることによって育成されるのは、高潔さやいわば英雄的感情だけではありません。詩には、魂を昂揚させると同様に魂を平静にし、昂揚した感情のみならず穏やかな感情も涵養するという偉大な力があります。(P.125)
つまり、非利己的な側面に訴え、目の前にあるものを義務として引き受ける厳粛や感情を刻みこむ力があるということです。
また、芸術を「完全性を求める努力」と定義し、永遠に到達し得ない理想美を究極の目的とし、不完全性に甘んじることのない姿勢も、芸術の陶冶の所産の1つとされています。
しかし、大学が促進すべきは、【真】【善】の部分であるので、この【美】に関してはあくまで補助的な扱いのようです。
結び
このような整理を経て、最後の部分でミルは下のように述べています。
諸君は今こそ、商売上のあるいは職業上の些末事よりもより重大ではるかに人間を高尚にする主題についてある程度の見識を獲得し、人間のより高度な関心事すべてに諸君の精神を活用する術を習得すべき時期であります。諸君がこのような能力を身につけて実生活の仕事のなかに入っていかれるならば、仕事の合間に見出されるわずかな余暇でさえも空費されることなく、高貴な目的のために利用されることでありましょう。(P.131)*1
つまり、一度上のような見識を獲得してしまえば、自分でさらに見識を広めていくことができ、自らで究極の目的に向かっていけるようになるということです。この姿勢を形作ることが、大学教育の目的となります、
そして、この究極の目的とは、次のように書かれています。
この究極の目的とはなんであるかと申しますと、それは、自分自身を「善」と「悪」との間で絶え間なく繰り返されている激しい戦闘に従軍する有能な戦士に鍛え上げ、人間性と人間社会が変化する過程で生じて解決を迫る日々新たな問題に対処しうる能力を高めることであります。(P.132)
要するに、物事の善悪を判断し、それに即して問題を処理し、社会を牽引していけるような能力を高めることが究極の目的となります。知的能力だけでは、善悪の判断に欠けますし、道徳的能力のみでは、問題の解決を正しく行うことはできません。ですので、この両者とも欠かすことのできない重要な要素となります。
そして、そのスタート地点に立つための準備をするのが大学教育の役目といえるでしょう。その門出にふさわしい(?)言葉が最後に記されているので、それを引用して本書のまとめを終わります。
ただ一つ、諸君の期待を決して裏切ることのない、いわば利害を超越した報酬があります。なぜそうなるかと申しますと、それは、ことのある結果ではなく、それを受け取るに値するという事実そのものに内在しているものであるからです。では、それは一体何であるかと申しますと、「諸君が人生に対してますます深く、ますます多種多様な興味を感ずるようになる」ということであります。それは、人生を十倍も価値あるもにし、しかも生涯を終えるまで持ち続けることのできる価値です。単に個人的な関心事は年を経るに従って次第にその価値が減少していきますが、この価値は減少することがないばかりか、増大してやまないものであります。(P.134)*2
コメント
さて、この概説(といっても短くはない)を踏まえた上で、個人的に感じたことを次にまとめたいと思います。
雑学を教養と見る風潮
世間的に教養のある人というと、いろいろなことを知っている人を指すのではないでしょうか**。雑学に詳しい物知りや博識な人というのは、大学で求められる教養人とは性質の異なるもののはずです**。本書にもあったように、一般教養とは知識の体系化の方法論であるのに対し、物知りはあくまでそれぞれの知識の断片を多く知っているということを意味しています。この違いが曖昧になっているように思えるので、この線引は明確にされる必要があるでしょう。
博識な人も教養人も優劣があるわけではないので、さほど問題では無いかもしれませんが、「頭がよい」というイメージが博識な人という意味にすり替わってしまう場合、学生が追い求める成長像が大きく歪められることが考えられます。
詰め込み教育は必ずしも悪く無い
とはいっても、教養を身に付ける、つまり知識を体系化するためには、基礎として断片的な知識が必要です。そのため最高学府である大学に入る前に知識が獲得されていることが前提となっています。この意味では、まずは知識をひたすらにインプットするという意味で、これまで批判されてきた詰め込み教育は悪く無いと思います。
むしろ、大卒者について限っていえば、人々が考える力を身に付けられていないというのは、それは小学校〜高校の詰め込み教育の所産ではなく、むしろ知識の獲得から知識の結合に発想を転換させることができていない大学教育の責任も大いにあるのではないでしょうか。
ただし、この転換を少し早い段階で行いやすくなるという意味で、指定校推薦や AO 入試、内部進学も意義があると思います。むしろペーパー試験の点数、つまり知識を多く知っていることを頭の良さと履き違え続けるよりは、これらの方がマシだと思います。しかし、知識を満遍なくインプットした上で、知識結合へ転換できることが一番望ましいことには変わりはないのではないかと思います。
大学生について
私自身も基本的に、本書の意見に同意しています。しかし、実際の大学生はどうでしょう。個人的な印象にすぎないので、客観的妥当性もなければ説得性もありませんが、持論を書いておきます。
結論からいうと、内容ばかりに注力している人が多い気がします。断片的な知識を入れるだけ入れて勉強した気になっている人や、考えずに話題のテーマに関してとりあえず行動している人が目立つ印象です。別にそれ自体が悪いわけではなく、怠惰な私からしてみれば、その行動力には感服するばかりであります。しかし、大学教育の目的に即していえば、望ましいとはいえないのではないかという印象です。
興味のある内容を勉強することは大変結構ですが、それだけでは知識の断片に過ぎません。調べれば本やインターネットで分かる以上のことは何もいえません。むしろ重要なのは、それらをつなぎあわせ、自らで意見を再構成する科学のご作法、つまり科学方法論なのではないでしょうか。自分の分野を例としてその背景にある方法論を学び取り、自らも科学の真似事(【観察(帰納)】と【推論(演繹)】の使用)をすることが学部生のすることだと私は思います*3
この意味でいうと、個人的にはつまらない人ばかりに感じます。私自身は、所詮学部を卒業しようとしている普通の大学生です。違うことといえば、方法論を意識的に勉強してきたということです。方法論を大事にしてきたということです。
しかし、自分の構築した論を披露し、それを批判してくれるような友人が周りにはあまりいません。それはそもそも、論を構成するという方法論(形式)に注力している人が少ないからだと思っています。意見の立て方について議論し合える人こそ、自分の根幹について話し合える相手なのだから、学友といえるのではないかと思っています。
この点を押さえてから、行動するなり、専門性を深めるなりすれば、より建設的にかつ効率的に自らの目的に向かっていけるのではないかと思っています。極論、観察し推論する力を身に付けさえすれば、大学を出た後でも自分で何でも学べ、かつそれを正しく使えるはずです。まず、その姿勢を確立することが大学教育の関心であるはずなのに、それを履き違えている人が多く嫌気がさしている次第です。この点について、本書を読んで一度考えなおしてみるとよいのではないでしょうか。
しかし、私自身は方法は考えれど、行動はしていないという意味で、不十分です。ですので、これからはこの方法論を活かして、とりあえずのところは4月からの仕事に活かしたいと思います。本も具体的な内容に関するものを読み進めていこうと思います。思想系の本はしばらくお休みです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。コメントや感想、批判などがありましたら、コメントを残していただけると幸いです。
*1:強調はブログ筆者が行いました
*2:強調はブログ筆者が行いました
*3:その共通した方法論があるからこそ、一定程度学業を修めた人同士は、学問分野が違ったとして理解し合えるのだと思います(内容に同意するのとはまた違うと思いますが)。