【書評】齋藤純一『自由(思考のフロンティア)』|君たちは今、本当に自由なの?
今回は、齋藤純一『自由』についてです。
講義を受けている際から気にはなっていたものの、なかなか読めていなかったので、仕事を始める前に読んでみました。
また、SEALDs がこれを議論のもとにした記事があったりもしたので、読んでみた節もあります。
今回は次のような目次で書き進めていきます。
本書の内容について
本書の要点を簡単にまとめていきます。
自由の定義
この本の趣旨は、自由について再考することです。そのために自由のこれまでの考え方をたたき台にして、自由の概念を明確に捉えていくことになります。
バーリンの定義
最初の段階として、アイザイア・バーリンの【消極的自由】の概念を下敷きにしていきます**。バーリンの【消極的自由】は、【干渉の不在】**として定義されます。つまり、自由とは自分の選択に関して、外部からの干渉がないことが求められます。
批判の 6 つのポイント
しかし、このバーリンの定義には問題点があるとして、指摘されています。そのポイントは6点に分けられます。
- 選択肢の質
バーリンは干渉のない状態での選択であれば、同様に自由として価値が認められます。しかし、そうした状況下であるかぎりにおいては、自由が無差別なものとなりますが、どのような選択肢がすべてが等価値ということはないはずです。たとえば、抑圧がない中で、大学の専攻として、政治・法学・文学・物理学・科学が選択肢としてあるとします。これは大学進学を考えている人にとっては価値のある選択肢ですが、高校卒業と同時に就職を考えている人にとっては重要な選択肢ではありません。
つまり、個人の考え方や価値観によって、重要な選択肢とそうではない選択肢があるはずですが、バーリンの定義ではこの違いを捕捉できません。
- アクセス可能性
アクセス可能性はの観点もバーリンの自由の定義には欠落しています。これは、アマルティア・センの【ケイパビリティ】の視点のことです。つまり、高校卒業をすれば、大学に進学する選択肢を得ることができますが、受験や受験勉強のための資金が不足しているがゆえに、実質的に大学に進学することが難しい、というケースは珍しくはないでしょう。しかし、権利としての選択肢しか、バーリンの定義は表現できず、実質的にその選択肢を実行できるのか、という点を区別できないのです。
- 行為者の内的制約
これは適応的(順応的)選好形成のお話です。つまり、外から「これはしてはいけない!」といわれ続けることで、自らがそもそもそれを望まなくなっていってしまうということです。自分はその選択には値しないとして自らに制約をかけ、希望すらしなくなるのです。こうした場合、元をたどれば外的な要因による自由の制限ではあるのですが、当人が望まなくなっていしまっているので、問題化できません。
- 意図的でない干渉(構造的要因)
【干渉の不在】にはそれを意図的に実行する主体が想定されています。しかし、干渉には必ずしも意図的な行動主体が存在するとは限りません**。構造的な要因によって実質的に自由が妨げられている可能性があります**。
飲み会でビール嫌いなのに、【一杯目はビール】みたいな雰囲気がしばしばありますよね。これは「一杯目はビールな!」という人が別にいるわけではないのですが、どのようなわけかそういう雰囲気になるので、構造的な干渉ということになるでしょう。
- 干渉なき支配
これは干渉と支配が別物であることを整理する必要があります。干渉とは、あーだこーだ口をだすことです。支配とは、何かに従わざるをえない状況のことです。そして、口は出されていないけれども、有無をいわさず従わせることが可能な状況があります。
たとえば、労働環境が劣悪な状況で働いている社員が、せめて残業代を出してほしいとお願いしようとしても、会社側に首切りをちらつかされては、実質的に社員は残業代を要求する選択肢を持っていません。しかし、明確に「やめろ」という干渉は受けていません。つまり、干渉は実行されていませんが、いつでも干渉を実行できる力関係がある状態が支配であり、干渉の有無を見ているだけではこの状態を見落とすことになります。
- 政治的自由の排除
政治的自由とは、**他者との<間>**ではじめて行使できる自由です。簡単にいうと、政治に参加することであり、意見を政治に反映させよりよい社会にしていく権利です。これはもちろん重要な自由ですが、他者がいることが想定されてはじめて成り立ちますが、個人単位での議論では見落としがちなポイントです。
再定義
これらの欠落した視点を踏まえて、本書では次のように自由を再定義しています。
自由とは、人びとが、正当にアクセスしうる自己/他者/社会の資源を用いて、達成・享受するに値すると反省的評価にもとづいて自ら判断する事柄を、作者の作為/不作為によって阻まれることなく達成・享受することができる、ということを意味する。(pp.54-55)
自由の所在
以上のような自由の定義を確認した上で、次に【自由の所在】を見ていきます。自由とは一体どこにあるのでしょうか。一般的には、個人の中にあるように考えられていると思いますが、それに否を呈するのがこの部分の内容になります。
自由は権力の中に
自由は、自由を抑圧する権力から逃れた先にあると考えがちです。ですので、経済的な自由を追求し、個人主義的な考えが台頭してきた節もあります。
しかし、自分のことは自分で決めるという**【完全な主権性】を【自由】と定義**すると、個人が完全に自由になることはありえません。なぜなら、他者からの干渉がない完全な主権性をある個人が達成する場合、その主権性を脅かす他者の主権性を放棄させる必要が出てきてしまうからである。そうすると、矛盾が生じてしまいます。
そこで、自由は【権力の外】にあるのではなく、【権力の内】にあると考えます。権力の内に考えると、干渉/支配下にあると考えるかもしれませんが、必ずしもそうではないといいます。なぜなら、権力に対して自己の欲求を主張することで、その権力の形が変わり得るのであれば、それは自由な行いであるといえるからです。
しかし、権力に対してモノをいう機会すらなく、ただただ従うしかないような独裁状態であれば、それは支配状態に当たりますが、民意が反映されていく国家権力(政府)であれば、それは民衆の自由を担保しているといえます。
自由は他者との間に
次いで、権力は個々人の中にあると考えられがちですが、他者との<間>にもあります。これは、すでに定義の部分で述べたように、政治的自由が挙げられます。しかし、自らの価値観に照らして望ましいとされる選択肢の実現は、やはり政治的自由を行使する政治的活動によってなされると考えれば、自由は他者との関係の中に存在するといえます。
これは、アーレントやハーバーマスの公共性の話が関係してきます。このような政治的自由は、その他の諸自由を実現するために重要性を持ち、それは個人という単独の単位のみで考えられるものではないのです。
自由のための必要
自由とはどういったもので、その自由はどこにあるのかを見てきました。それでは、その自由はどのように実現されていくのでしょうか。そのために必要な要素を、個人側と社会側の両視点から見ていきましょう。
個人:自己統治/自己への配慮
すでに述べたように、干渉がないだけでなく、支配がないことも求められます。しかし、支配をする主体がないだけでは不十分で、個人が支配されない意志をもつことも同様に重要になります。
人びとは常に社会構造的要因によって自らの望みが歪められている可能性があります。ですので、常に自分の考えを客観的に見つめなおすことで、自分がなににとらわれているのかを問い返し、必要であれば社会にそれを要求していく行動が求められます。これができなければ、既存の権力に実際的に従い続けることになるので、さきほど述べた可変性/可逆性をもたらす政治的自由が損なわれることになります。
ですので、個人が自らが何にとらわれているのかを見つめなおし、自由である努力を怠らないことが求められます。しかし、それは権力を打倒するためではなく、あくまで権力の形を変えてより良くしていくことが重要なのです。この変化が【運動】と呼ばれ、これこそが政治的自由を意味している。
社会:自由の促進
他方、自由の担保のために社会が担うものもあります。上にもあるように、干渉する主体を無くすだけでは不十分です。自由を阻害する要因を無くすだけでなく、促進することも必要となってきます。
自由の促進のために必要なことは、生活保障です。日頃の生活で恐怖が存在しないだけではなく、不安なく安心して暮らせる基盤が必要なのです。なぜなら、そうした安心感があることによって生が多様になると考えられるからです。不安であるからこそ、我慢し自らの望む生の形が実現できないことは多々あるでしょう。そうではなく、そうした不安感を解消することで、個々人の生の実現(=自由)を達成できるとなるのです。
まとめ
これまでは、自由は権力の外側にあり、個人の中に存在すると考えられることが多くありました。しかしそれは、権力の中で変化のために活動し続けるところに自由があり、それは他者との関係性の中で達成されるものなのです。狭められた自由の概念に対して、批判的に示していくのがこの本のおおまかな趣旨でした。
コメント
この本の内容を踏まえて、気になったポイントを指摘していきます。
権力の複数性
権力に対して、意見を表明していくことが自由のために重要な行為の1つです。しかし、権力を批判的に見ていくことが自由な行いであるとは限らないと思います。なぜなら、権力は複数存在すると思うからです。自分の考えを振り返る中で違和感を感じ、それに抗っていても、実はそれは別の権力にしたがっているだけかもしれません。
つまり、反対勢力に単に流されているだけで、それは自分が反省した結果もつことになった新たな意見ではない場合があります。ですので、ただ権力に歯向かうだけでは十分ではないのではないでしょうか**。権力や反権力に与することなく考える行為(【自己への配慮】)をしていくことが重要**なはずです。
権力の多層性
さて、これまで権力というと国家/政府といった単位が想定されていたかと思いますが、自己に強制力をもつ権力はこれだけではありません。企業や市民団体などさまざまな中間団体も個人にとっては権力となり得るはずです。つまり、権力は国家という単位で複数あるのみならず、異なるレベルにおいて多層的に存在するともいえるのではないでしょうか。
そして、これによって思考コストが膨大になると考えられます。国内の政治に関してのみ考えるのであれば、常に自分の意見を持ち続けることはまだ可能かもしれません。しかし、私たちは複数の所属を持っているので、住んでいる地方自治体や勤務している企業に対しても常に批判的にチェックをすることを考えると、かなりの負担となるのではないでしょうか。仕事の内容や方法について、より効率的な方法はないのかなどと考えながら働いていれば、企業内の意思決定(企業内政治)については自由なはずです。
現在では、この仕事における思考が多くを占めているからこそ、政治的な単位においては思考が削減されているように思っています。ですので、政治という単位における思考が重要であることが強調されたとしても、実際的にこの経済社会状況においては実現性が少ないということも考えられます。多層的な権力構造を踏まえた上で、実行可能な自由の在り方を構想することも重要だと思います。
まとめ
この本は、【自由】という漠然としたイメージしか持っていない概念を明確に捉える初歩となります。ここに書いてあることを起点として、他の書籍を当たることで、自由という概念の争点や潮流を理解できると思います。
そして、自由とは私たちが生きていく上で中心的な概念です。私たちが生きている社会の根底を流れるこの社会を形成する/すべき論理を知ることで、自分の生き方に意味を付け足すこともできるのではないでしょうか。単なる興味本位でもよいですし、自分の人生の豊かさを感じるためにも、一読の価値ありだと思います。