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【まとめ】堂目卓生『アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界』|「公平な観察者」の提唱者としてアダム・スミス

【まとめ】堂目卓生『アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界』|「公平な観察者」の提唱者としてアダム・スミス

tawachan
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こんにちは。

今回は、ブログ移行前に書いた記事を体裁を整えて再掲します。

アダム・スミスといえば、高校の教科書にも出てくる経済学の創始者として知られていると思います。一般的には、「神の見えざる手」と題して、自由経済肯定の根拠として持ちだされますが、実はそうではない側面があります。

そこで、『アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界』に書かれているアダム・スミス像をまとめてみます。

「神の見えざる手」の提唱者としてのアダム・スミス

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アダム・スミスは、さきほども書いたように、高校生でも知っているような有名な学者です。そしてその学びから、スミスとはどのような人物かと問われれば、間違いなく**『国富論』と「神の見えざる手」**が想起されるでしょう。

一般的な解釈としては、スミスは『国富論』の中で、何の経済的な規制を敷かずに市場に経済活動を委任することで、自然と資源が最適な状態で分配される(=「神の見えざる手」)と述べた人物ということになっていると思います。つまり、市場放任主義者であり、個人の利益追求行動を無批判に容認している立場を取ると見られているでしょう。

高校などでざっくりと名前を見知った印象としてはこうなるのかもしれません。しかし、スミスはこのようなことを実は言っていません。経済学という体系を形作る基礎となる考えを知ることで、スミスの真意を知ることができるでしょう。

その基礎となる議論が、「公平な観察者」に関するものです。スミスは、「神の見えざる手」の提唱者としてよりも、「公平な観察者」の提唱者として認知される方が望ましいように考えています。ですので、この「公平な観察者」とは何かを概説し、それが現代においても知られる意義のあるということを簡単に書いていきたいと思います。

公平な観察者とは

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まずスミスは、人間の本性の1つとして「同感」という能力を上げています。人間は、「同感という能力を使って他人の感情や行為を観察し、それらに対して是認・否認の判断を」しますし、また同様のことを他者もしていることを知っています。つまり、他人の状況を見て、自分だったらよいように感じるか/悪いように感じるかを判断し、徐々に自分のそのように見られていることを知っていきます

そうすると次に、他者が自分に対してどのように評価を下しているかを意識し始めます。所謂、他人の目が気になるという状態です。自分のしていることが、友達に許容されるのか、もっといえば社会の中で許されることなのか、ということを考えます。 こういった特性に関してスミスは、「この願望は人類共通のものであり、しかも個人の中で最大級の重要性をもつもの」だとしています。

このように、周りを観察した経験と、観察されたという経験を通じて、自分の所属する集団や社会における判断基準を自分の中に形成していきます。【怒られたり咎められたりしたらこれはしてはいけないこと】【喜ばれたり褒められたりすればこれはしていいこと】というように Trial&Error を繰り返しながら、ある組織における物事の善し悪しをつかみとっていくことがありますよね。そのときつかみとった判断基準が、「公平な観察者」と呼ばれるものになります。

他人の評価を意識し行動する中で、何が是認され、何が否認されるのかを経験として学ぶことで、社会における判断基準(常識?)を身に着けていきます。そしてこの基準をもとに、自らの感情や行為の適切性を判断していくようになります。 これは、自分の感覚に引きつけても同意できる現象なのではないでしょうか。スミスはこの感覚を基礎に経済学を形作ります。

2 種類の評価基準—「財産への道」と「徳への道」

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しかし、感覚的に身につける判断基準にも種類があります。

財産への道

「財産への道」は、「徳や地位を獲得して世間から賞賛を得る道」であり、「弱い人(=つねに世間の評価を気にする人、賞賛を欲し、非難を恐れる人)」が選ぶ道です。

これは、自分の判断基準と、他者からの判断基準の乖離が想定されています。富や名誉を得れば他人から評価されている感覚を得ることができます。

しかし、自らの正義の感覚など自分の中にある判断基準はそれを許すでしょうか。周りからの評価やお金を取るか、お金も少なく周りからも評価されずとも正義を貫くかの選択をえまられた時に、前者を優先してしまうのがこの道になります。

徳への道

「徳への道」は、「徳と英知を獲得して胸中の公平な観察者から賞賛を得る道」であり、「賢人(=胸中の観察者の評価を重視する人、賞賛に値することを欲し、批判に値することを恐れる)」が選びます。

こちらの道は、財産への道と違い、他者評価よりも自分の自分に対する評価を優先できるということを意味します。

スミスの解釈

スミスは、財産への道を認めています。なぜなら、その野心により、社会が発展し利益がもたらされるからです。他人のほしいものを考慮して、その希望を満たすようなものを提供していくことで社会が発展していくという考え方は、経済学の発想につながるものです。

しかし、財産への道を容認する条件として、徳への道も同時に歩むことを挙げています。つまり、富の追求はしても構わないが、あくまで胸中の公平な観察者の認める範囲の中に限られます。スミスによれば、「正義感(公平な観察者)によって制御された野心、および、そのもとで行われる競争だけが社会の秩序と繁栄をもたらす」ということになります。

ですので、「神の見えざる手」でいわれるような、無際限な自由主義経済を主張するようなものではまったくありません。むしろ、何らかの正義に反するのであれば、規制されることが結果的に望ましいと言っています。

「公平な観察者」の提唱者としてのアダム・スミス

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以上で見たように、「財産への道」と「徳への道」の同時追求を述べています。一般にいわれる「神の見えざる手」の提唱者としてのアダム・スミスは、「財産への道」のみを取り上げてしまっているように見えます。

しかし、実際は「徳への道」(=公平な観察者)も同時に歩むことを求めています。高校で教えるのであれば、自由主義経済の申し子のように語るのではなく、「公平な観察者」の提唱者としてのアダム・スミスを語るほうが望ましいのではないかと思います。

まとめ

このように、アダム・スミスとは有名でありながらもかなり誤解をされている学者であるように思います。そしてそれが、自由主義経済を後押しする論拠として使われることが多くあるように思います。経済学の成り立ちを振り返ることで、今ニュース等で語られることの再確認の一助になればと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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