飽き性の頭の中

読書メモ「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫の法哲学入門」

読書メモ「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫の法哲学入門」

tawachan
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「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫の法哲学入門」という本を読んだときのメモです。

全体的な感想

すべてが対談形式で語られたものが文字に起こされている形なので、結構文体がフランクだった。でもこの内容は硬いのだけれどフランクに書かれているという塩梅が結構気に入った。

覚えている内容のメモ

ロールズは政治的リベラリズムで微妙になった

サンデルは共通善を主張していたがかなりリベラルになった

正義概念と正義の諸構想

正義の諸構想は、リベラリズムとか功利主義とか公正としての正義とか

そこに共通した何かを見出すものが正義概念。共通項。共通善のようなもの?

同じ正義概念の異なる基準を提示しているから正義の諸構想の対立が起こる、と。

義務論的考えらしい

やはり善は個人の自由としても、それを他社を侵害しない限りに置いてなどといった制約が敷かれる

そのためには善に先行する正義による制約がある。そのために正義が先行することが望ましいという立場。そこはロールズと共通。

リベラリズムは正義主義?(≠ 自由主義)

自由を主張はするのだが、自分の視点のみならず他者の視点からも許容できることを要求する。

つまり、視点の反転可能性の重要性を主張している。

独断の利益追求を許すわけではなく、自分に都合がよいわけではなく他人に同じことをやられても許容できる、いわば自分の首も締めうる。

こうした正義が基底にあるのがリベラリズム。だから正義主義なのかも。

正当性(rightness)と正統性(legitimacy)

特定の正義概念を満たしている限りに置いて正当ではある

仮に自分は賛同できない政党が勝ったとしても今は従う、それは今選ばれたし次は変わるかもしれないから、こうした状況には正統性がある。でも違う正義概念をもつ人にとって正当性はない。

こうした正統性を制度に担保するために具現化されたものが立憲主義。この視点が共通正義概念になる?

→ 正義の基底性

グローバルジャスティス

国家内の正義を語るのもやはり限界があるという考え

国内で正義が達成されていたとしても、その正義が国家外での搾取を基に成立していたのであればそれはやはり不正義

国家を超えた世界において正義を語ることが必要。

戦勝国側があまり語らない、世界の貧困に目を瞑っていることが問題、という感覚があるとか

同じく敗戦国ドイツ出身のポッゲくらいがグローバルジャスティスを語っている?

集団的自衛権とか、正解統治構造の話とか、国家体制の正統性とか、トピックはたくさんあるが、それぞれ分化している印象らしい

しかしそれらを統合的に語る必要があると。

カント的なコスモポリタニズム的な研究もあまりない。EU 事実上失敗しているしねぇ…。

主権国家は答責性の観点から必要

NGO とか多国籍企業も国家並みに影響力をもつことがある

でも、責任逃れできてしまう。国外に逃げるとか、組織を解体するとか。

国家はそれができないので、そういう主体として国家は必要であり続けるのでは。

主権国家を脱構築するのではなく再構築する

現状だと国家が残りつつ、ヨーロッパ人権規約が超国家的に定められ、それを国内法に取り込むなどという形で共存がなされていたりする

脱構築の度合い

価値の話を脱構築するのはよい

ジェンダーの話とか

でも正義とか人権を脱構築するのは違うと思うと。

既存の意味秩序を撹乱しているだけで結局何もなっていない。茶化して遊んでいるだけ。

やっぱりブロックチェーンである程度脱構築できるのでは

国家という枠組みは答責性が問題になっている。

でもブロックチェーンで国家でなくても逃げも隠れもできない状況が作り出せるのかもしれない。

そうた状況を前提とした秩序の設計というのはできるのかもしれない。

国家の歴史は人類の歴史から見れば浅いもの。国家の次の秩序が訪れても全然いいような気はしている。

暴力を集中させて管理させる国家というシステムから、相互監視で暴力を分散させてコンフリクトを減らしていくシステムがあってもよさそう。

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